七百餘所神社|八千代市村上の神社

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七百餘所神社|米本城主村上氏が累代崇敬

七百餘所神社の概要

七百餘所神社は、八千代市村上にある神社です。七百餘所神社は、弘安年間(1278-1288)の創建とされ、米本城主村上氏が累代崇敬、永禄元年(1558)に米本城が落城した際には城主村上綱清が当地で自害したとも伝えられ、以後、村上・米本・下市場3ヶ村の鎮守として祀られてきたといいます。明暦3年(1657)に社殿造営、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。当社例祭・祈年祭に奉納される神楽は八千代市無形民俗文化財に、羯鼓(太皷)は八千代市有形文化財に指定されています。また毎月9日に行われる月次祭(中臣祓講)江戸時代初期から続けられているそうです。境内の大師堂は、吉橋大師八十八所霊場34番です。

七百餘所神社
七百餘所神社の概要
社号 七百餘所神社
祭神 国常立尊
相殿 -
境内社 疱瘡神社、天満天神、三峯神社、道祖神、金刀比羅神社、白籏神社
例祭日 例祭10月9日、祈年祭1月15日
住所 八千代市村上433・434
備考 -



七百餘所神社の由緒

七百餘所神社は、弘安年間(1278-1288)の創建とされ、米本城主村上氏が累代崇敬、永禄元年(1558)に米本城が落城した際には城主村上綱清が当地で自害したとも伝えられ、以後、村上・米本・下市場3ヶ村の鎮守として祀られてきたといいます。明暦3年(1657)に社殿造営、明治維新後の社格制定に際し村社に列格していました。村上氏は、鎌倉時代に諏訪から移ってきた豪族とも推定されていることから、当社の創建に関わっていた可能性も推定されます。

境内掲示による七百餘所神社の由緒

当神社は第九十一代の御宇多天皇の弘安中の創立御鎮座にして明暦三丁酉年十月九日社殿を造立宝永二乙酉年改造
往古七百余所大明神と称し来りしが明治元辰七百余所神社と改め現本殿は明治十六年に拝殿は明治三十二年に建設され今に至る。(境内掲示より)

パンフレット「八千代の歴史遺産散歩」による七百餘所神社の由緒

古代には「村神」と呼ばれた地のウブスナ様で、祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)。神楽殿では「村上の神楽」(市指定文化財)が1月15日の祈年祭と10月9日の例祭に舞われ、また1月の神楽の後に湯立て神事が行われ、その年の豊凶作が占われる。氏して文化財の羯鼓には天正11年(1583)の銘。江戸時代初期から400年余続く月次祭神事の中臣祓講は旧村上村の人々の祈りの場となっている。「中臣祓一万度碑」は明治39年(1906)銘。市内最古の狛犬像(天保6年1835)、笠付角柱型の青面金剛像(元禄7年1694)、庚申塔、出羽三山碑など多数の石造物がある。神社門前にある「七百余所神社古墳」は、径20m高さ3mの円墳で、未発掘、市指定文化財。米本城落城後、城主の村上綱清が落城しここで家臣とともに自害したという伝承がある。(パンフレット「八千代の歴史遺産散歩」より)

「八千代市史」による七百餘所神社の由緒

七百余所大明神
村上村字宮内に所在。祭神は国常立尊。「県神明細』には「一由緒 明暦三丁酉造立永宝二酉建立往古七百余所大明神止称シ来リ候処明治元辰年七百余所神社ト改メ候」とある。同書には境内社として琴平大神(祭神金山彦命)・子安大神(祭神埴安姫命)・守夜神(祭神布都口神)・天満宮(祭神菅相丞霊)・疣大神(祭神玉凝姥命)・八坂大神(祭神素戔嗚命)・青龍大神(祭神豊玉姫命)を載せている。(「八千代市史」より)

「千葉県神社名鑑」による七百餘所神社の由緒

弘安年間の創立御鎮座で、明暦三年一〇月九日社殿造営された。宝永二年の改築以後七百余所大明神と称したが、明治初年現号に改称された。現在の社殿は明治以後の建築。(「千葉県神社名鑑」より)

「印旛郡誌」による七百餘所神社の由緒

村社七百餘所神社
村上區字宮内にあり國恒立命を祭る明暦三丁酉年創立せる處にして寶永二乙酉年更に社殿を建立せり往古七百餘所大明神と稱し来りしを明治元辰年七百餘所神社と改稱せり境内一千四十七坪(官有地第一種)ありて本殿は間口八尺奥行八尺拝殿間口四間三尺奥行二間渡殿間口九尺奥行二間社務所間口四間三尺奥行二間神輿殿間口一間奥行九尺神楽殿間口二間奥行二間三尺御手洗水屋間口一間奥行一間ありて村社中最壮厳なり毎年春秋兩度に例祭あり春季は一月十五日秋季は十月九日にして當日は午前神殿を装飾して午後祭典を行ひ神楽を奏し探揚式を行ひ神輿の渡御あり神官山本吉蔵にして氏子百十七戸を有し、管轄廳まで四里二十町あり本社は古来祓講といふものありて毎月九日には講員一同社殿に集ひ来りて中臣の祓を奏す寶物として奉書紙の古文書一通及び木製圓形の羯皷ありて天正十一年卯月八日造の文字を識せり境内神社七社あり即
一、琴平大神 金山彦命を祭る由緒不詳石祠なり
二、子安大神 埴安姫命を祭る由緒不詳石祠なり
三、守夜神 布都魂神を祭る由緒不詳石祠なり
四、天満宮 菅相丞を祭る由緒不詳石祠なり
五、疣大神 石凝姥命を祭る由緒不詳石祠なり
六、八坂大神 素戔嗚尊を祭る由緒不詳石祠なり
七、青瀧大神 豊玉姫命を祭る由緒不詳石祠なり
〇新撰佐倉風土記云在村上村不詳所祭
〇地理志料云村上村有七百餘所明神祠所祀未詳因謂万葉集有村上村鳥磐村村畔皆借村充群之義村神即群神取之七百餘所神祠耶又村中有鴨鴛寺記云「保元中平入道眞圓爲鴛鴦建寺天文五年平胤廣再興」奥砂石集所所載下野阿曾沼事及著聞集所載陸奥赤沼事相類成就寺號附會者耶
〇古文書寫左の如し
七百餘所大明神下總國印旛郡村上村鎮坐大神村上氏米本城世々之據城主皆氏神尊敬奉武運長久祈民部大輔綱清代永禄元年至城廢夫以後村上村米本村下市場村三ヶ村鎮守稱奉(「印旛郡誌」より)


七百餘所神社所蔵の文化財

  • 村上の神楽(八千代市指定無形民俗文化財)
  • 羯鼓一口(八千代市指定有形文化財)
  • 七百余所神社古墳(八千代市指定有形文化財)

村上の神楽

毎年一月十五日と十月九日に七百余所神社神楽殿にて行れる。午前中拝殿にて式典を行い、午後神楽殿にて舞れる。昔は十二座あったと思われるが現在では次の九座のみになりました。
一、修祓
二、座清め
三、翁の舞
四、種おろし
五、宇受売女の舞
中入
六、湯巫の舞
七、玉取り様の舞
八、恵比須の舞
九、みかぼしの舞
以上ですが、この他に「剣打ちの舞」というのがあったと言われていますが現在では名前のみが残っています。祭典の間、氏子の人々は丸餅を十二個神社に奉納し、餅一つをいただいて帰ります。奉納された餅を神楽終了時にまきます。
一月の時は神楽終了してから神主によって「湯立て神事」が行れます。白衣に身を固め、大釜の前で祝詞を奏上し、熊笹の束を湯にひたし、四~五回自らの体に熱湯をふりかけます。熱湯を全身にあびて忘我状態になった神主をムラの若者が抱きかかえ拝殿まで運って湯立てが終ります。残ったお湯をいただいて身体に振りかけると、身が清められ、けがれを祓うとされています。(八千代市教育委員会掲示より)

羯鼓一口

神楽の時使われた楽器(皷の一種)で、直径四十センチ、胴長五十四センチあり、胴内部に天正十一年(一五七三)の墨書銘があり、村上正蔵院釈迦像の天文十五年(一五四六)の光背修理銘札に次いで古く、皮は明治二十六年に新しくつけ替えられたものです。胴部の桐材で室町末期(戦国期)でありますので神楽の古さをしのばせ、かつ当時の武士との関連も考えたことが出来ます。県内でも古い方に属する羯鼓です。(八千代市教育委員会掲示より)

七百餘所神社の周辺図


参考資料

  • 「八千代市史」
  • 「千葉県神社名鑑」
  • 「印旛郡誌」