米本城跡。八千代市米本にある旧跡・名所
米本城跡の概要
米本城跡は、八千代市米本にある名所旧跡です。米本城跡は、戦国時代に村上国綱・綱清が居城した南北300m、東西150mほどの中世城郭跡です。米本城跡は、南へ延びる舌状台地を東西方向に堀り切り、4つの曲輪で構成されていたとされます。永禄元年(15585)に落城、城主村上綱清は七百餘所神社へ逃れ神社境内で自殺したと伝えられ、墓所は米本城跡近くの長福寺に残されています。
旧跡・名所名 | 米本城跡 |
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みどころ | - |
入場時間 | - |
入場料 | - |
住所 | 八千代市米本 |
備考 | - |
米本城跡の縁起
米本城跡は、戦国時代に村上国綱・綱清が居城した南北300m、東西150mほどの中世城郭跡です。米本城跡は、南へ延びる舌状台地を東西方向に堀り切り、4つの曲輪で構成されていたとされます。永禄元年(15585)に落城、城主村上綱清は七百餘所神社へ逃れ神社境内で自殺したと伝えられ、墓所は米本城跡近くの長福寺に残されています。
境内掲示による米本城跡について
米本城跡
米本城は、新川(もと平戸川)東岸の米本字内宿の台地突端にある中世城郭で、『佐倉風土記』(一七二二)によると。この城は戦国時代に村上国綱・綱清が居城し、綱清は永禄元年(一五五八)に、落城にともない自殺したと伝えられます。城の北方にある長福寺は、綱清が墓を開いた寺といわれ、綱清の墓と伝わる五輪塔(伝・村上綱清の墓石)があります。
城跡は南北三〇〇メートル、東西約一五〇メートルあり、面積は約四五〇〇平方メートルで、海抜二六メートルの台地に築かれています。城の南部は昭和四十二年ごろに土取りのため失われ、城の構造については不明な点もありますが、南へ延びる舌状台地を東西方向に堀り切り、独立した曲輪とよばれる平坦面を作り出した構造(直線連郭式)です。曲輪は空堀と土塁に囲まれた区画で、南端のⅠの曲輪(主郭)を中心に、4つの曲輪で構成されています。
中世城郭の特徴として、石垣や天守閣などを持たず、自然の崖や沼を利用し、土塁や空堀を築いて守りを固めています。米本城の場合も、高い崖と、砂戸の先に当時広がっていた沼地を城の西側の防備とし、城の表門である大手門(この説明版のある場所にあったとされる)から、Ⅰの曲輪の間に、空堀や土塁などを築いています。堀は北から一の堀(外堀)、二の堀、三の堀とよばれ、深さは二~五メートル、巾一五~三〇メートルあります。一と二の堀は四字形に堀り込んだ箱薬研といい、三の堀はV字形に堀り込んだ薬研堀です。土塁は巾六~一六メートル、高さ一~三メートルあります。根古屋付近には城主の家来が住み、城内には建物、柵、櫓(見晴らし台)、馬小屋などを整備し、戦いの時にはⅠの曲輪を中心に立て籠もりました。
根古屋(根小屋)、りゅうげ(要害が転訛)など、城の周辺でよく見られる地名や、落城時に咳をしたため見つかり斬られた老兵を祀ったとされる咳の神様や、城橋、矢中(盛んに射交わした矢の落ちたところ)、おんまわし(敵味方が互いに追いつ追われつの激戦をくり返したところ)、根宜地(ねぎち・にげち、落城の際に逃げた道)など、米本城に関係した地名・伝承が残されています。(八千代市教育委員会掲示より)
米本城跡の周辺図