興之宮神社|興野宮村の鎮守、本一色天祖神社に対して東の宮
興之宮神社の概要
興之宮神社は、江戸川区興宮町にある神社です。興之宮神社の創建年代等は不詳ながら、寛永7年(1630)10月の改築と伝えられ、興宮村の鎮守だったといいます。興之宮村では、当社を東の宮、本一色天祖神社を西の宮と称されていました。
社号 | 興之宮神社 |
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祭神 | 天照皇大神 |
相殿 | 香取神宮、鹿島神宮 |
境内社 | 稲荷神社、日枝神社 |
住所 | 江戸川区興宮町18-26 |
備考 | 新小岩香取神社の兼務社 |
興之宮神社の由緒
興之宮神社の創建年代等は不詳ながら、寛永7年(1630)10月の改築と伝えられ、興宮村の鎮守だったといいます。興之宮村では、当社を東の宮、本一色天祖神社を西の宮と称されていました。
「江戸川区史」による興之宮神社の由緒
興之宮神社(興宮町三七四番地)
旧興之宮村の鎮守、天祖、香取、鹿島の三神をまつり、もと神明社といって光蔵寺持ちであった。本一色の西の宮に対し「東の宮」といわれる。創建は不詳であるが寛永七年九月に本殿が改築された。(「江戸川区史」より)
新編武蔵風土記稿による興之宮神社の由緒
三社明神社。
神明香取鹿嶋ノ三神ヲ安置ス。
村ノ鎮守也。本一色村光照寺持(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による興之宮神社の由緒
鎮座年代不詳であるが、寛永七年(一六三〇)九月十六日本殿改築、本一色神明社を西の宮ということに対し、当社は東の宮という。昭和元年御改正に付き、道ケ島香取神社神官亀井永信兼勤、以来信太郎、悦造、現瑞雄兼勤社となる。正月初詣りのおりには、特別神符の亀井和泉守九字切矢の授与があり賑わう。また二月節分祭には、総代代表数名が道ケ嶋香取神社に年越し奉幣がある。(東京都神社名鑑より)
境内掲示による興之宮神社の由緒
興宮天祖神社改修と境内整備完成に当り神社の由緒と歴史の概要を残された文献と口碑とを中心として後世に伝えんとして記す。興宮神社の祭神は天照皇大神を主体とし香取鹿島両神宮のニ体が合祀されている。創立年代は不詳であるが鎌倉時代の関東の豪族葛西三郎清重の家臣一式某なる者の領地であったと伝えられる。徳川幕府初期即ち寛永7年10月建設と古書にある。当興宮神社を東の宮、本一色天祖神社を西の宮と呼び両神社の因縁深き事は今に至るも尚継続している。江戸時代末期の文献には幕府直轄の代官支配下の幕府直納の米の生産地であった地名は武蔵国東葛西領興之宮村と呼ばれた。村の面積は22町歩、戸数は十数戸人口百十数人と言う寂しい農閑村部落であった。神社の境内は約4反分、別に田畑3反余の財産があったがこれは戦後農地法に依り耕作者の所有となった。凡そ神社仏閣の維持は有力な氏子崇敬者或いは特別な支援協力なくして維持運営は難事である。その点に欠けた当神社の維持は全く容易ならぬ事であったと当時の村人我々祖先の苦労を偲び感無量なるものがある。太平洋戦争の終焉に伴い、国民感情は正に虚脱状態となり、一般国民生活は極度に窮迫の一途を辿るのみ、今や神に対する信仰概念や境内整備等への関心は殆んど絶無である。従って神殿境内は放置され勝となり斯くし三百年の歴史を閲して今日に至った。
茲に於いて社殿の大改修と社務所の新築、境内の整備の必要を痛感し、日々に荒みゆく国民感情の融和と社会福祉の一端なりにも寄与し氏子の切実な要望に応へんが為、境内一部の宅地変更によりこれが資金に充当し氏子負担を避け即ち神社自体の財産により一切を賄うべく企画し、これが実現に専念した。
幸い神社本庁の認証を得、更に関係各方面の理解と支持就中宮司亀井悦造氏の適切なる御指示と特にこの広大なる境内の神社を護り続けてきた我々遠い祖先に感謝しつつ茲に一切の改修整備の完成を見るに至った次第である。(昭和41年8月吉日 大野録三記)
興之宮神社の周辺図