無量山仲台院|将軍徳川吉宗の代より将軍御膳所
仲台院の概要
浄土宗寺院の仲台院は、無量山西方寺と号します。仲台院は、鎌倉光明寺の学僧應誉良道上人(天正元年1573年寂)が天文8年(1539)創建、八代将軍徳川吉宗の代より将軍御膳所となっていたといいます。
山号 | 無量山 |
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院号 | 仲台院 |
寺号 | 西方寺 |
住所 | 江戸川区西小松川町11-17 |
本尊 | 木造阿弥陀如来立像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 西小松川保育園 |
仲台院の縁起
仲台院は、鎌倉光明寺の学僧應誉良道上人(天正元年1573年寂)が天文8年(1539)創建、八代将軍徳川吉宗の代より将軍御膳所となっていたといいます。
新編武蔵風土記稿による仲台院の縁起
(西小松川村)仲台院
浄土宗増上寺末、無量山西方寺と号す。本尊弥陀、二菩薩の像を置。開山感蓮社應誉了道、天正元年正月24日寂。過去帳に元禄4年2月5日御城に於御能拝見等のこと見。享保2年12月4日此邊御遊猟の時、御膳所となりしにより、今も御膳所となれり。
寺寶。円光大師鏡御影一幅。
鐘楼、享保12年鐘銘なり。(新編武蔵風土記稿より)
江戸川区教育委員会掲示による仲台院の縁起
仲台院
浄土宗で、無量山西方寺と号します。鎌倉光明寺の学僧應誉良道上人が天文8年(1539)一宇を建立して、阿弥陀如来をまつったのがはじまりです。
当寺は、享保2年(1717)に将軍吉宗が放鷹のため、当地を訪ずれたときに将軍御膳所(休息や食事をする場所)にあてられて以来、幕末まで将軍の御膳所でした。
吉宗は、頻繁にこの地へ来て、鷹狩りをおこないました。自ら紀州(和歌山県、吉宗はもと紀州藩主)から呼び寄せた綱差役(獲物となる鳥の飼育などをする役)加納甚内がこの地にいたこと、当時この地には鵜が多く飛来していたことによると思われます。吉宗、家重、家冶の三代で百回以上もこの地で鷹狩りをしており、その大半は仲台院を御膳所にしています。(江戸川区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による仲台院の縁起
仲台院(西小松川一丁目三〇三四番地)
無量山西方寺と号して浄土宗で増上寺の末であった。本尊は阿弥陀如来、開山は天正元年に入寂した感蓮社応誉良道であると伝える。中興は寛保元年に遷化した秀蓮社出誉上人である。当寺は享保二年将軍吉宗が遊猟の際御善所にあてられて以来幕末に至るまで続いた。寺から書き出した記録として『葛西志』に掲載されている所によると享保二年から寛政十二年にいたるまでに一二回ほど畳や屋根などを将軍家によって修復された事が記されている。御膳所としては重要な寺であったことが推察される。
梵鐘には享保十二年の銘がある。寺宝として円光大師鏡御影一幅を所蔵し、又墓地内に加納甚内の墓がある。(新編武蔵風土記稿より)
仲台院所蔵の文化財
- 木造阿弥陀如来立像(区指定有形文化財)
- 加納甚内の墓(区登録史跡)
木造阿弥陀如来立像
本尊の木造阿弥陀如来立像は、技法から鎌倉時代の制作と推定される秀作です。寄木造りで、脚部を別材でつくり、体部に差込む珍しい形式をもち、彫刻技術もすぐれています。(江戸川区教育委員会掲示より)
加納甚内の墓
墓地の南西隅に加納甚内の墓があります。甚内は綱差役として将軍鷹狩りの御用をつとめたほか、新田開発者でもありました。享保年間に幕府が新田開発を奨励していた時、甚内はこれに応じ、西小松川村の菅野を開発しています。この新田は「綱差新田」、明治以後は「綱差耕地」と呼ばれ、荒川が開削されるまで残っていました。甚内は寛保3年(1743)に亡くなりましたが、その子孫は代々甚内を称して、綱差役が廃止されるまで、その役を世襲しました。(江戸川区教育委員会掲示より)
仲台院の周辺図