一箕町嚴島神社。永徳年間勧請、戸ノ口堰洞穴、旧郷社
一箕町嚴島神社の概要
一箕町嚴島神社は、会津若松市一箕町町大字八幡にある神社です。一箕町嚴島神社は、石塚・石部・堂家の三家が永徳年間(1381-1383)に勧請、正宗寺が別当を務めていたといいます。元禄13年(1700)には会津藩主松平正容公が御神像・土地を寄進しています。境内の戸ノ口堰洞穴は、八田野村の肝煎八田内蔵之助が通水させた用水を、天保6年(1835年)当地まで延長させたもので、戸ノ口原で敗れた白虎隊士の二番隊20名が潜った洞穴だといいます。明治19年郷社に列格していました。
社号 | 嚴島神社 |
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祭神 | 市杵島姫命 |
相殿 | - |
境内社 | 戸ノ口堰水神社 |
祭日 | - |
住所 | 会津若松市一箕町町大字八幡弁天下 |
備考 | - |
一箕町嚴島神社の由緒
一箕町嚴島神社は、石塚・石部・堂家の三家が永徳年間(1381-1383)に勧請、正宗寺が別当を務めていたといいます。元禄13年(1700)には会津藩主松平正容公が御神像・土地を寄進しています。境内の戸ノ口堰洞穴は、八田野村の肝煎八田内蔵之助が通水させた用水を、天保6年(1835年)当地まで延長させたもので、戸ノ口原で敗れた白虎隊士の二番隊20名が潜った洞穴だといいます。明治19年郷社に列格していました。
「福島県北会津郡誌」による一箕町嚴島神社の由緒
厳島神社(式外)
一箕村大字八幡字飯森山ニアリ。永徳年中ノ建築ニ係リ一枝島姫命ヲ祀ル。明治十九年十一月郷社ニ列セラル。(由緒名所ノ部飯森山参照)(「福島県北会津郡誌」より)
境内掲示による一箕町嚴島神社の由緒
嚴島神社
當社は宗像三女神の一にして古くから人々の信仰が厚かった。主神は市杵島姫命である。
会津の領主芦名直盛公の時代、石塚・石部・堂家の三家によって社殿が建てられたるものとして時は永徳年間のことである。別當は正宗寺である。降って元禄十三年には会津藩主松平正容公は御神像及び土地を寄進され、明治の初期に嚴島神社と改めた。この山を飯盛山と呼ぶ。別名の辯天山は、この神社にあやかるものである。(境内掲示より)
境内の戸ノ口堰洞穴について
猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ水を引く用水堰で全長31kmに及ぶ。
元和9年(1623年)八田野村の肝煎八田内蔵之助が、開墾のため私財を投じ工事を行い寛永18年(1641年)八田野村まで通水した。その後、天保3年(1832年)会津藩は藩士土佐藤豊助を普請奉行に任命し、5万5千人の人夫を動員し堰の大改修を行い、この時に弁天洞穴(約150m)を掘り同6年(1835年)完成した。
慶応4年(1868年)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中二番隊20名が潜った洞穴である。(境内掲示より)
一箕町嚴島神社の周辺図
参考資料
- 「福島県北会津郡誌」