北宮諏訪神社。会津の北宮に対する北宮、旧郷社
北宮諏訪神社の概要
北宮諏訪神社は、喜多方市字諏訪にある神社です。北宮諏訪神社は、永和元年(天授元年:1375)に蘆名直盛が諏訪大社を勧請、会津若松に勧請した諏訪社を南宮、当社を北宮としたといいます。天文7年(1538)には別当寺を置き、蘆名氏の永世祈願所としたものの、天正17年(1548)蘆名氏滅亡により伊達氏から社領を没収されました。しかしその後の領主蒲生・上杉・加藤氏から松平氏に至るまで崇敬を受け、明治5年には郷社に列格していました。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方神、八坂刀賣命 |
相殿 | 春日大神、住吉大神、大市比賣命 |
境内社 | - |
祭日 | 例大祭8月2・3日 |
住所 | 喜多方市字諏訪59 |
備考 | - |
北宮諏訪神社の由緒
北宮諏訪神社は、永和元年(天授元年:1375)に蘆名直盛が諏訪大社を勧請、会津若松に勧請した諏訪社を南宮、当社を北宮としたといいます。天文7年(1538)には別当寺を置き、蘆名氏の永世祈願所としたものの、天正17年(1548)蘆名氏滅亡により伊達氏から社領を没収されました。しかしその後の領主蒲生・上杉・加藤氏から松平氏に至るまで崇敬を受け、明治5年には郷社に列格していました。
「福島県耶麻郡誌」による北宮諏訪神社の由緒
北宮諏訪神社
一祭神:建御名方神、八坂刀賣命
一所在:喜多方町字小原鎮座
一由緒:社記曰天授元乙卯年夏蘆名直盛諏訪神靈を此地に勸請し而して若松を南宮とし當社を北宮とす。其後蘆名盛氏に至て天文七戊戌年七月社殿を造營し修験大蔵院順をして別當に充て永禄二己未年十月田一町歩を寄附し永世の祈願所と爲すと云ふ。然るに天正十七年伊達家と國を爭ひ蘆名氏終に亡ふるに及んで社領等沒収せり。然れとも其後蒲生・上杉・加藤の諸氏及ひ松平氏に至るまで領主代々之を崇敬し殊に春秋二季及旱水の祈願使を派し幣帛を献して厚く祭祀の禮を行はる時に明治五年秋神社改正郷社に列せらる
一勧請:天授元乙卯年五月蘆名直盛勸請
一神位:正一位。文化七年正月十三日宣下。蔵人頭右大辨兼春。宮亮藤原資愛奉
一祭日:八月二日(「福島県耶麻郡誌」より)
新編會津風土記による北宮諏訪神社の由緒
村中にあり永和元年五月二十七日信濃國諏訪郡より勸請せり。天文七年七月蘆名氏再興して社領千苅の田を寄附す。天正己丑の兵火に炎上し神器古文書の類焼失し。慶長三年上杉景勝此國を領せる時諸役免除の證文を附せり、今はなし。此社昔は此より三十間計北にあり。寛永十八年今の地に移せりと云。又廓内の諏訪神社に對して北宮とも稱へしと云。祭日六月二十七日、又社内に市神の木像二軀あり毎年正月十二日村中に假宮を營みて祭をなす(新編會津風土記より)
北宮諏訪神社の周辺図
参考資料
- 「福島県耶麻郡誌」