新宮熊野神社。国指定重要文化財の長床、旧県社
新宮熊野神社の概要
新宮熊野神社は、喜多方市慶徳町新宮熊野にある神社です。新宮熊野神社は、安倍貞任追討を命じられた鎮守府将軍源頼義とその子義家が、紀州熊野三所に武運祈願、前9年の役に勝利したことから、天喜3年(1055)河東町に創建、後3年の役(1083-1087)に際して応徳2年(1085)。当所に遷座したといいます。往時には三百余の末社霊堂に、百余人の神職が仕え、奥州の熊野と称されていましたが、地域領有者の盛衰に伴い次第に衰廃、慶長16年(1611)の大地震で大破したといいます。保科正之の入封により政情も安定、寛文7年には改めて会津藩領内七大社の一社と定められ、明治維新後には、明治5年郷社に列格、昭和2年には県社に昇格していました。当社の拝殿は平安時代末の遺構を残している他、熊野造りの本殿が三社併置されている建造物は非常に珍しい構造です。
社号 | 熊野神社 |
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祭神 | 熊野櫛御氣野命、伊邪那美神・速玉男命・事解男命、國之常立神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 喜多方市慶徳町新宮熊野2258 |
備考 | - |
新宮熊野神社の由緒
新宮熊野神社は、安倍貞任追討を命じられた鎮守府将軍源頼義とその子義家が、紀州熊野三所に武運祈願、前9年の役に勝利したことから、天喜3年(1055)河東町に創建、後3年の役(1083-1087)に際して応徳2年(1085)。当所に遷座したといいます。往時には三百余の末社霊堂に、百余人の神職が仕え、奥州の熊野と称されていましたが、地域領有者の盛衰に伴い次第に衰廃、慶長16年(1611)の大地震で大破したといいます。保科正之の入封により政情も安定、寛文7年には改めて会津藩領内七大社の一社と定められ、明治維新後には、明治5年郷社に列格、昭和2年には県社に昇格していました。
境内掲示による新宮熊野神社の由緒
熊野神社(本宮十二社権現殿・新宮証誠殿・那智山飛竜権現殿)
平安中期の永承六年(一〇五一)奥州平定を命じられた鎮守府将軍源頼義とその子義家は、紀州熊野三所に武運を祈願し、前九年の役(一〇五一~六二)に勝利したのを機に天喜三年(一〇五五)河沼郡熊野堂村(現河東町)に熊野三社を勧請したが、後三年の役(一〇八三~七)の兵乱がはじまった応徳二年(一〇八五)八幡太郎義家によって熊野堂村からこの地に移された。当初は本村に新宮、岩沢村に本宮、宇津野村に那智殿が別個に祀られたが、後にこの地に三社が合祀された。
「新宮雑葉記」によれば、盛時には三百余の末社霊堂に多くの宗徒、百余人の神職を置き、国家の安全を祈願し、奥州の熊野と賞され崇高されたという。
文治五年(一一八九)佐原義連によって寺社領悉く没収されたが、建久三年(一一九二)源頼朝より社供二百町を賜り、かつ文殊菩薩の形像を安置せられた。また当地の地頭新宮氏によって以前の栄耀をみるに至ったが、打ち続く戦乱と慶長十六年(一六一一)の大地震で多くの建物は倒壊した。同十九年再建されたが昔の面影は失われ、ただ拝殿(長床)の遺構のみが往時の壮大さを伝えている。
当社には国指定重要文化財二点、県指定重要文化財七点があり歴史の古さを物語っている。(喜多方市教育委員会掲示より)
「福島県耶麻郡誌」による新宮熊野神社の由緒
郷社熊野神社(慶徳村大字豊岡新宮字御嶽山鎮座)喜多方市
一祭神
新宮:伊邪那美神、速玉男命、事解男命
本宮:熊野櫛御氣野命
那智:國之常立神
一所在:慶徳村大字豊岡新宮字御嶽山鎮座
一由緒:社記曰天喜三乙未年鎮守府将軍源賴義朝臣安倍貞任追討祈願の爲め紀伊國牟窶郡熊野に座す三所神社を河沼郡熊野堂村に勧請し又寛治五辛未年鎮守府将軍源義家朝臣清原武衡征討の折熊野堂村の熊野神社を當所に遷座し社領として百餘村を寄附す。壽永年中越後國城長茂車両多く押領す。文治五己酉年佐原義連此地に封せられて入國社領悉く沒収す。依て社僧舊例を鎌倉将軍家に達す依て重て将軍家社領に百町を寄附せらる。然るに弘和以来領主蘆名家の一族互に相爭て兵亂止む時なく社領多くは押領の地となる。故に社僧過半離散す。慶長六辛丑年蒲生秀行蘆名氏に代り封を受けて入國、社領を廢す。故に社僧皆離散して獨り眞言宗新宮寺のみ殘れり。後寛永二十癸未年保科氏當國四郡を給はり入國す。當社舊例に依り祈願所となし厚く崇敬す。寛文七丁未年九月領内七大社の鎮座を糾し玉山講義録を奉納す。當社は其七大社の一なり。又狼藉殺生諸木伐採の禁札を掲示し已来修繕七年毎に指萱十四年毎に葺替と定む云々とあり。又近郷七萬石の村々高十石に付米四合宛神供料として慶應三丁卯年まで毎年課出す。明治五年郷社に列せらる。
一勧請:天喜三乙未年
一祭日:七月二十日
一什寶物:社傳記、太刀、銅鉢、假面、玉山講義、木偶狛犬、田樂日記、光源氏系圖、相撲人木偶、細字法華經巻物、三十六歌仙書、牛王の版木、牛王の寶印等(「福島県耶麻郡誌」より)
新宮熊野神社所蔵の文化財
- 熊野神社長床(国指定重要文化財)
- 熊野神社本殿三棟(福島県指定重要文化財)
- 銅鉢(国指定重要文化財)
- 木造文殊菩薩騎獅像(福島県指定重要文化財)
- 銅鐘(福島県指定重要文化財)
- 鰐口(福島県指定重要文化財)
- 牛王版木(福島県指定重要文化財)
- 御神像6躰(福島県指定重要文化財)
新宮熊野神社社殿
長床は熊野神社の拝殿で、九間x四間、茅葺寄棟造りの建物です。
直径一尺五寸(四五・四cm)の円柱四十四本が五列に並び、各柱の間は十尺(三〇三cm)の等間隔で全部吹抜けです。外廻り一間通りが化粧屋根裏の庇の間として区切るように並べてあり、中央桁行七間、梁間二間のところは天井を張った身舎となっていまうs。
各柱の上には、平三斗の組物がのり、中備には間斗束を用いています。
前身建物は、各所に残る部材の様式手法から考えて、平安時代末期のものと推定されます。慶長十六年(一六一一)の大地震で倒壊し、同十九年に再建されましたが旧材を再使用したため、柱間寸法が縮み身舎九尺(二七二cm)庇八尺(二四八cm)となり、また組物や天井等を廃したり、軒はせがい造り改められたりしていました。
そこで昭和四十六年から四十九年にかけて解体修理が行われた時、調査の結果旧規を知る箇所が数多く判明したので、できる限り当初の姿に復元しました。
中央の系統をひく平安時代末の遺構として、東北地方では他に類をみないものとなりました。(喜多方市教育委員会掲示より)
熊野神社本殿三棟
国指定重要文化財熊野神社長床を拝殿とし、石段をのぼった山の中腹に、玉垣をめぐらして三殿が並列し、東を向いて建っている。中央が本社新宮証誠殿、左が末社那智山飛龍権現、右が末社本宮十二社権現である。
三社とも一間社奥行二間、妻入り向拝付の同じ規模であるが、各社各部に手法や細工の程度に相違がみられ、同じ棟梁でないだけでなく、修理のあとも多い。
中央の新宮殿は、両末社より手法・細工とも入念であり、基壇はなく、礎石の上に地長押を置き、縁長押も設けて床を高くしている。向拝には特に浜床に相当する部分はない。向拝の三つ斗・つなぎ虹梁・木鼻などが先練されている一方、主屋の木鼻や懸魚は鈍いので、向拝は修理にあたって変更を受けているとも考えられる。一見して春日造りの形をとるが、ここでは向拝を入母屋の妻屋根の延長として扱い、平行二重の繁棰は隅木を入れて前面にも巡らし、縁も両側面に延長して脇障子をたてるなど、本来の形式よりは進歩している。
この種の本殿形式は紀州熊野神社社殿がそうであるところから、熊野造りの名称もある。東北地方の神社本殿はほとんどが流造りである中で、わづかの熊野神社のみが妻入りの系統を伝えているのは興味深い。建立時期についての記録はないが、形式伝播や同種の例から推定して、主屋は室町末期以降、向拝などには慶長年間(一六〇〇年ごろ)に、山上から現在地に移されたとき大修造があったと考えられる。
なお、熊野造りが三社併置されている大規模遺構は、県下に当社以外をみない。(福島県教育委員会掲示より)
銅鉢
高さ28cm、口径62.5cmの朝顔型の鉢。神仏の前に米飯を供える食器の一種で、修験道関係に用いられ、洗米や賽銭などを受けたもの。暦応4年(1341年)の奉納銘があります。(新宮熊野神社しおりより)
木造文殊菩薩騎獅像
大きな獅子に乗った全長285cmの像。髪型、指、目などの特徴から藤原時代色もあるが、男性的な顔、衣文、側面から見た厚さや背面の彫刻等から鎌倉時代初期の作と考えられています。(新宮熊野神社しおりより)
銅鐘
高さ132cm、口径78cm。乳部に蓮華、下おびに唐草模様が刻まれている。貞和5年(1349年)の銘があり、福島県内では最も古い銅鐘です。(新宮熊野神社しおりより)
鰐口
面径31.5cm、厚さ17cmの鰐口で、新宮一族が奉納したもの。側面が一般には扁平楕円形であるのに対し、短形(長方形)に近い形をしているのが特徴。康応2年(1390年)の奉納銘があります。(新宮熊野神社しおりより)
牛王版木
縦26.6cm、横40.7cm、厚さ2.6cmで、寺社から出される牛王宝印とよばれる護符を刷った版木。「熊野山宝印」の文字は、熊野の神の使いである鳥を文様化したものです。(新宮熊野神社しおりより)
新宮熊野神社の周辺図
参考資料
- 「福島県耶麻郡誌」