蚕養国神社。延喜式式内社、旧県社
蚕養国神社の概要
蚕養国神社は、会津若松市蚕養町にある神社です。蚕養国神社は、弘仁2年(811)に鎮座、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される式内社です。寛弘7年(1011)には、県令石部少将道秀・堂家左京太夫憲照・石塚丹後頼春等が社殿を建立したといいます。その後焼失していた社殿を、保科正之が再建し社領20石を寄進、明治5年には県社に列格していました。
社号 | 蚕養国神社 |
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祭神 | 保食大神、稚産霊大神、天照大御神 |
相殿 | - |
境内社 | 五社稲荷神社、鬼渡神社、護忠霊社、和霊々社、宗像神社 |
祭日 | 例大祭8月1日 |
住所 | 会津若松市蚕養町2-1 |
備考 | - |
蚕養国神社の由緒
蚕養国神社は、弘仁2年(811)に鎮座、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳に記載される式内社です。寛弘7年(1011)には、県令石部少将道秀・堂家左京太夫憲照・石塚丹後頼春等が社殿を建立したといいます。その後焼失していた社殿を、保科正之が再建し社領20石を寄進、明治5年には県社に列格していました。
境内掲示による蚕養国神社の由緒
蚕養国神社は、日本一社にして、延喜式神名帳に、陸奥一百座の一つである。五十三代嵯峨天皇の御代弘仁二年(八一一年)鎮座にて、五十四代仁明天皇承和年間に、官社に列せられ、醍醐天皇の御代、延喜式選定の折、式内の社となる。一条天皇寛弘七年(一〇一一年)に、県令石部少将道秀・堂家左京太夫憲照・石塚丹後頼春等により、社殿を草創す。その時の神官を、蚕養蔵人という。その後、兵火のため社殿炎上し神籬の境内であったが、保科正之侯が、官工、鷹谷弥十郎宗清に命じ、社殿以下を造営し、社領二十石を寄付、櫻町天皇寛保三年(一七四三年)には、正一位の極階に進まれた。文化四年、社殿焼失し、文政二年(一八一九年)松平容敬朝臣・社殿以下を正之侯創立に写し造営、今日に至る。 (境内掲示より)
蚕養国神社所蔵の文化財
- 峰張サクラ