北会津町熊野神社。富田監物祐義勧請
北会津町熊野神社の概要
北会津町熊野神社は、会津若松市北会津町にある神社です。北会津町熊野神社は、富田家三代の富田監物祐義が嘉暦2年(1327年)荒井の郷を拝領、さらに元徳元年(1329年、約690年前)に大沼郡十二ヶ村(五千石)を追加拝領し下荒井に城館を築造した際、熊野神社を勧請したといいます。その後、応安元年(1368、或は正平17年1362年か)当地に再建、明治維新後には村社に列格していました。
社号 | 熊野神社 |
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祭神 | 伊弉冉尊、泉津事解之男尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 会津若松市北会津町下荒井宮ノ東 |
備考 | - |
北会津町熊野神社の由緒
北会津町熊野神社は、富田家三代の富田監物祐義が嘉暦2年(1327年)荒井の郷を拝領、さらに元徳元年(1329年、約690年前)に大沼郡十二ヶ村(五千石)を追加拝領し下荒井に城館を築造した際、熊野神社を勧請したといいます。その後、応安元年(1368、或は正平17年1362年か)当地に再建、明治維新後には村社に列格していました。
新編会津風土記による北会津町熊野神社の由緒
(下荒井村)熊野宮
(境内東西二十五間、南北四十間、免除地)村南五町十間ニアリ、勧請ノ年月詳ナラス、鳥居・幣殿・拝殿アリ
相殿四座
伊勢宮二座。本村ヨリ移セリ
八幡宮。同上
天神。同上
神職坂内備前。宝暦中左近某ト云者神職ヲツカサトリ相続テ今ニ至ル、左近ハ今ノ神職清高カ祖父ナリト云(新編会津風土記より)
北会津町熊野神社と下荒井城の関わりについて
熊野神社と下荒井城
富田家三代の富田監物祐義が嘉暦二年(1327年)ここ荒井の郷を賜りさらに葦名氏家五代の盛宗より、元徳元年(1329年、約690年前)に大沼郡十二ヶ村(五千石)を賜った後、下荒井に城を築いた。
築城時に三の丸西北隅に八幡神社を(耶麻郡叶壮)より勧請(分祀)し、又、同じころ村南のこの地に熊野神社が奉遷されたと伝えられている。
お祀りしている神様は、伊弉冉尊(神話によれば伊弉冉尊は、夫伊弉諾尊と共に日本の国土を創った神様で、伊勢神宮の天照大御神や八岐大蛇を退治した素戔嗚尊の母親と云われています)と、泉津事解男命です。
城は(下荒井集落の中央北側に荒館小学校の門柱があり、幅3m位の細い道の奥に、現在グラウンドになっている城の址地がある。)集落から北に向かい西より入口と駐車場がある。小学校が昭和六十一年村北(字八幡前十三番地)に移転する前々の、昭和二十八年頃まで、小学校改築前の敷地内に、本丸土塁の址や稲荷様、大欅なども残っており城址の面影があった。
今は、グラウンド南東前の柿畑と宝寿院の間の農道わきに、土塁址が少し残っているのみ、又、グラウンド東側には字三の丸の地名がある。(境内掲示より)
北会津町熊野神社所蔵の文化財
- 熊野神社三幹の杉
熊野神社三幹の杉
葦名の臣富田家三代祐義は元徳元年(一三二九)下荒井に城を築き、その一郭に熊野神社を造営した。その後、この地に再建されたのは応安元年(一三六八)とも正平十七年(一三六二)ともいわれる。また、和歌山県熊野神社(三社)の分霊であるところから通称三所の宮と呼ばれている。
神社建立当時にこの杉が植えられたものと推定すると、樹齢は六百年を超える。同一の根元(幹周六、二メートル)から三つに分かれてそれぞれが幹をなし、太いものは幹周三、六メートル(地上から四、五メートル)あり、他はそれに準じている。
氏子は三幹の杉と称し、御神木として尊崇している。(会津若松市教育委員会掲示より)
北会津町熊野神社の周辺図
参考資料
- 新編会津風土記