西会津大山祇神社。真海法師が宝亀10年(779)三島大明神を勧請
西会津大山祇神社の概要
西会津大山祇神社は、福島県耶麻郡西会津町野沢にある神社です。西会津大山祇神社は、奈良県宇陀郡宮崎の真海法師が、伊豆国三島大明神の霊夢により、宝亀10年(779)に松原山(宇陀帰山)に勧請したといいます。会津地方のみならず、中通り・越後一円から多大な信仰を集め、例大祭は6月一ヶ月続き、また初詣も前夜より多くの参拝者が参詣していたといいます。
社号 | 大山祇神社 |
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祭神 | 大山津見神・岩長比売神・木花咲耶比売神 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 例祭6月一ヶ月 |
住所 | 西会津町野沢大久保甲1445-2 |
備考 | - |
西会津大山祇神社の由緒
西会津大山祇神社は、奈良県宇陀郡宮崎の真海法師が、伊豆国三島大明神の霊夢により、宝亀10年(779)に松原山(宇陀帰山)に勧請したといいます。会津地方のみならず、中通り・越後一円から多大な信仰を集め、例大祭は6月一ヶ月続き、また初詣も前夜より多くの参拝者が参詣していたといいます。
「西会津町史」による西会津大山祇神社の由緒
大山津見神・岩長比売神・木花咲耶比売神を祭る。同社の『字国帰宮起源』によれば、宝亀九年(七七八)大和国(奈良県)宇陀郡宮崎の真海法師が当地に来て伊豆国三島大明神(大山祇神)の霊夢のお告げにより、翌年九月九日、この神を松原山に祭った。その後真海法師がどこともなく姿を消したので、里人は「生国の宇陀郡に帰ったのだろう」といって松原山を宇陀帰山と呼ぶようにしたという。
現在この山に建つ宮を御本社と呼び、大久保にある神社を遥拝殿としている。また本社の奥の山に奥の院の祠があるが、危険なために現在は止め山となっている。
同社は古くから太々講が作られ、会津と県内中通りはもとより越後一円から多大な信仰を集めている。太々講というのは、例祭日に大久保社の神楽殿において新潟市内の神社の楽人らが太々神楽を奉納したからである。戦前の同社例祭は六月五日から十四日までであったが、戦後「大山まつり」と称するようになってから六月中一杯の例大祭となった。したがって、十日間連日であった太々神楽は毎週土・日の奉納となった。
また、同社には「二年参り」という信仰がある。これは元日参りの一種であるが、陰暦の大晦日から元日にかけて参拝するところからこの称がある。大久保の社は野沢の町から四キロ強の山のなかにあり、加えて豪雪の時期である。
越後の参詣者は終列車で来るために野沢の商店街では焚き火で歓迎し、神社では途中の要所要所に篝火を焚いてもてなした。越後の人の大部分は拝殿に龍って元旦を待ったが、地元近辺の者たちは宿屋に上がって年夜と元旦を祝ったのであった。
当社の祭神の一人の岩長比売神は長寿の神であるが、醜女のために独身であったといわれている。それで男女同伴の参拝者にはヤキモチを焼くというので、越後の同伴者のなかには新潟の近、海で捕れるオコゼ(虎魚) を奉納した。この魚の容貌に比べたら-と比売を慰めて福を願ったのである。しかし、野沢の花街で精進落としを企む参詣者は、妻との同伴を断るのにこの俗信を利用したのであった。
宇陀帰山の本社には「お百度」を数えるための算盤様の器具が備えてある。ここの宿に泊まった講の連中は深夜になって装束に着替え、そしてお百度を踏んだのであるが、そのとき神が降りて来て「今年もよう来たのう」と講中の巫女の口を籍りて褒めて下さるといわれている。
大久保の同社は昭和十五年(一九四〇)六月九日に類焼し、現在はことごとく復旧した。
野沢娘の草刈る姿 大山参りの足とめた
あるいは『野崎小唄』をもじって、
大久保参りは佐竹自動車で参ろ どこを向いてもホイドだらけ
粋なフォードにゃ子めらがたかる 寄るな触れるな垢が付く
などと昭和初期の盛況を歌ったのであるが、前記「如法寺鳥追観音」とともに、この「山の神様」は当地信仰観光のメッカといえる。
みゝめひく杉の木陰にわきかえる 水の音すずし山つみの杜
従六位松平健雄
松平健雄は松平容保の三男である。(「西会津町史」より)
西会津大山祇神社の周辺図
参考資料
- 「福島県北会津郡誌」