青山城跡。喜多方市上三宮町の名所旧跡

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青山城跡。土方歳三らによって葬られたといわれる墓

青山城跡の概要

青山城跡は、喜多方市上三宮町にある名所旧跡です。青山城跡は、応永9年(1402年)に新宮氏と争い滅ぼされた佐原氏の居館跡とされ、当地より東側にも居館があったといいます。当地は西館と推定され、東西約160m、南北約250mに及び、周囲には土塁と空堀が巡らされ、遺構がよく残されています。

青山城跡
青山城跡の概要
名称 青山城跡
みどころ -
区分 史跡
住所 喜多方市上三宮町
備考 -



青山城跡の由緒

青山城跡は、応永9年(1402年)に新宮氏と争い滅ぼされた佐原氏の居館跡とされ、当地より東側にも居館があったといいます。当地は西館と推定され、東西約160m、南北約250mに及び、周囲には土塁と空堀が巡らされ、遺構がよく残されています。

境内掲示による青山城跡の由緒

青山城跡は、江戸時代の地誌「新編会津風土記」によると、鎌倉時代初期の関東武士佐原十郎義連の孫、五郎左衛門盛時を祖とし、俗に加納殿と呼ばれた佐原氏の居館跡とされており、南西約百五〇mには、盛時を祀った五郎神社がある。佐原氏は応永九年(一四〇二年)に新宮氏と争い滅ぼされたという。昔は東城と西城があったといわれるが、現存するのは西城にあたるこの城のみである。、
城の規模は東西約一六〇m、南北約二五〇m、現在は日枝山王神社が祀られてい、物見台もしかは矢倉台と推定される比高約一〇mの高まりと、南北二つの郭から成る。
遺構の残りは良好で、周囲には土塁と空堀が巡らされ、南郭の鳥居付近は土塁が二重となり、北郭の北東には虎口と土橋が設けられている。(喜多方市教育委員会掲示より)

新編会津風土記による青山城跡の由緒

青山城跡
東城・西城トテ二アリ、東城ハ今民居トナリ、其形サタカナラス、西城ハ村西三町三十間ニアリ、東西三十六間・南北四十間、何レノ年築シト云コト詳ナラサレトモ、佐原氏(俗ニ加納殿トイフ)ノ子孫相続シテ此ニ住シ、本郡ノ内加納荘ヲ領セリト云、佐原氏ハ遠江守盛連ノ五男三浦介盛時ノ子孫ナリ、盛時初五郎左衛門尉ト云事跡東鑑ニ詳ナリ、康元元年相模守時より落飾ノ時、兄光盛・弟時連ト倶ニ出家セリ(卒年詳ナラス)、応安ノ比佐原十郎高明アリ、盛時ヨリ七代高蓮ノ子ナリト云(府下五之町実相寺ニ此人ノ寄附状ノ写アリ、併見ルヘシ)、何レノ比絶タリト云コト詳ナラス(新編会津風土記より)


青山城跡の周辺図


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