諸陵山八葉寺。会津高野山、冬木沢詣り
八葉寺の概要
真言宗豊山派寺院の八葉寺は、諸陵山と号します。八葉寺の創建年代等は不詳ながら、空也上人が奥州巡錫中、康保元年(964)当地周辺の野ざらしにされた遺骸を集め、丁寧に埋葬して供養、八葉寺を創建したと伝えられます。精霊の集まる地として会津一円の人々の信仰を集め、会津葬菩提所、会津高野山とも称され、室町時代に定着した御魂迎えの行事冬木沢詣は国重要無形文化財に指定されています。
山号 | 諸陵山 |
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院号 | 成就院 |
寺号 | 八葉寺 |
住所 | 会津若松市河東町広野冬木沢208 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
八葉寺の縁起
八葉寺の創建年代等は不詳ながら、空也上人が奥州巡錫中、康保元年(964)当地周辺の野ざらしにされた遺骸を集め、丁寧に埋葬して供養、八葉寺を創建したと伝えられます。精霊の集まる地として会津一円の人々の信仰を集め、会津葬菩提所、会津高野山とも称され、室町時代に定着した御魂迎えの行事冬木沢詣は国重要無形文化財に指定されています。
境内掲示による八葉寺の縁起
日本遺産会津の三十三観音めぐり
八葉寺阿弥陀堂
964年、空也上人がこの地を訪れた際建立したことが始まりとされ、周囲の供養されていない遺骸や遺骨を集め境内に供養した事から「会津の高野山」といわれる。本堂の阿弥陀堂は1589年の戦火で一度焼けたが、その後再建され現在に至る(国指定重要文化財)。木製の五輪塔に遺髪や遺骨を入れて供養する風習が伝わっており(国指定重要有形民俗文化財)、また、毎年8月5日に「空也念仏踊り」が行われる。
(「極上の会津プロジェクト協議会”会津の三十三観音めぐり”ストーリー」掲示より)
「新編会津風土記」による八葉寺の縁起
八葉寺
(境内東西四十七間、南北十九間、年貢地)村北ニアリ、昔ハ九品念仏ノ一派ナリ、今ハ府下大和町金剛寺ノ末寺真言宗トナル、縁起ヲ案スルニ当寺ハ空也ノ開基ナリ、空也諱ハ光勝トテ縁起三年ニ生ル、容貌極テ醜ク右手ヲ開カス、因テこ曠野ニ棄ラレシニ、イツクトモナク一ノ小鹿来リテ撫育ス、弱冠ニ及テ尾州国分寺ニ於テ剃髪シ、其後諸国ヲ経歴セシニ、奥羽二州ハ辺裔ノ地ニテ仏化至ルコト少キニヨリ、自ラ仏像及経巻ヲ負来リ、下野・陸奥ノ境ニテ北天ニ紫気アルヲ望ミ、コレヲ奇異トシ其地ヲ尋テ此ニ至リ、康保元年一伽藍ヲ創メ、携ヘ来ル所ノ弥陀ノ像ヲ安置シ、閼伽ノ井ヲ掘リシカ、中ニ八葉ノ蓮花ヲ生セシトカヤ、因テ如来山八葉寺ト名ケ、又多年勝地ヲモトメ、今此処ヲ得ルトテ悉地成就院ト号ス、其時一人ノ老翁現シ、空也ニ向ヒ吾ハ伊豆神ナリ、此地仏法有縁ノ地ナリ、熊野ノ神ト共ニ鎮護セント云畢テ失去ヌ(今ノ権現塚山、其地ナリトソ)、斯テ空也此ニ住シ、天禄三年九月十一日浄衣ヲツケ香炉ヲ執リ、弟子ニ告テ曰、無量ノ聖衆来迎シテ空ニ満リト、遂ニ気絶ユ、時ニ年七十ナリシトソ、又縁起ニ空也ヲ 延喜第三ノ皇子トス、元享釈書ニ空也ノ伝ヲ載テ氏族ヲイハストアレトモ、延喜帝ノ御子トイフ説モ世ニ言旧タルコトナレハ、実シカアリケンモ知ヘカラス、其伝ハ元享釈書ニ詳ナレハ爰ニ略ス、空也滅後ノ法系詳ナラス、享徳二年当寺回禄ニ罹リシヨシ塔寺村八幡宮長帳ニ見ユ、天正十七年伊達氏ノ乱ニ、住僧宥伝ハ葦名ノ重臣富田美作カ弟ナレハ、葦名ノ為ニ恩ヲ報セントテ防戦ノ用意ヲナシケルニ、義広没落ノヨシヲ聞宥伝力ナク逐電セリ、政宗コノ振舞ヲキキ院院ニ火を懸シカハ、一宇モ殘ラス焼失ス、昔ハ今ノ阿弥陀堂ト共ニ一搆ノ地ニテ、八葉寺ノ境内ナリシト見ユレトモ、何レノ頃ヨリカ境地ヲ分テ今ハ二箇所トナル
阿弥陀堂
(境内東西四二十四間、南北三十間、免除地)八葉寺ノ東三十間ニアリ、是即チ八葉寺ノ本尊堂ニテ、此地ヲ俗ニ会津ノ高野ト唱ヘ、毎年七月朔日ヨリ十一日マテ遠近ノ男女相集リ、死者ノ為ニ遺歯ヲ堂中ニ納メ、奥院ニ香花・茶湯ヲ酋シ盂蘭盆会アリ、此時諸村ヨリ市子アツマリ、亡者ノ為ニ過去将来ノ事ヲ語ル、参詣多シ
仁王門
南向、三間ニ二間、左右ノ力士各長五尺一寸、古物ト見ユ
鐘楼
二王門ヲ入テ右ニアリ、八尺四面計、鐘ノ径二尺一寸、宝永七庚寅年秋七月一日、本願主冬木沢村佐藤太兵衛・浅野村束原八右衛門ト彫附アリ
本堂
三間半四面、南向、四方ニ庇縁アリ、本尊ハ空也持来ル所ノ弥陀ノ像なり、秘仏ニテ見ルモノナシ、又堂前ニ石燈籠六基アリ
空也水
本堂ノ辰巳ニアリ、三尺四方計ノ石櫓ヲ埋め、上ニ一間ニさん間余ノ屋アリ、水最甘冷ナリ、災アラントスル時ハ水色変スト云、空也ミツカラ堀シリ所ナリトソ
閼伽井
本堂ノ前ニアリ、東西六間・南北三間、空也水ヲ引テ爰ニ注ク、昔八葉ノ蓮花ヲ生ストイフハ此池ナリトソ
十王堂
本堂ノ東ニアリ、二間四面、南向
開山堂
本堂ノ西ニアリ、二間四面、南向、空也ノ木像ヲ安ス、長五尺三寸、冷骨癯貌生ルカ如シ、空也自作ルトイフ
奥院
本堂ノ北石階ヲ登リ小山ノ上ニアリ、三間半四面、南向、弥陀ノ木像ヲ安ス、鰐口一口アリ、表ニ□□□郷目札山熊野宮檀那□□視大夫、永禄八年乙丑六月吉、裏ニ梵文ト奥州会津八葉寺鰐口旦那念仏衆、天正十三年乙酉七月廿五日、機興即生□一銭半文之助成重為自証化他善根偏抜苦与楽也、願主遠藤半内ト彫附アリ、磨滅シテ見エサル者六字、又南脇ニ一間半ニ一間ノ茶湯場アリ
空也塚
開山堂ノ北奥院ノ西南ニアリ、後ニ古キ数囲ノ欅アリ、其前ニ空也大上人天禄三壬申年九月十一日入滅ト彫附タル石塔アリ、塔ハ近世ノ者ナレトモ古ヨリ空也ノ塚トス、又ココヨリ戌ノ方ニ高三尺余ノ古キ石塔ヲ建テ祖陵ト称ス、相伝テ、延喜帝ノ為ニ建シト云、文字見エス
古碑
本堂ヨリ辰巳ノ隅ニアリ、高五尺計ノ野面石ナリ、草書ニテ文字ヲ彫ル、字体磊落ニテ古雅ナリ、其文如左(文省略)
千本松趾
本堂ヨリ四十間余辰巳ノ方ニアリ、空也千株ノ松ヲ植シ一ナリトテ、近頃マテ老樹一株残レリ、今ハ枯テナシ
宝物
空也画像。一幅、筆者知ス、自画ナリトモ云
鹿角。一双、空也嘗テ曠野ニ棄ラレシ時、野鹿ノ助アリシユヱ、供養ノ為ニ其角ヲ柱杖ノ頭ニツケ、磐ヲカケ念仏ヲ唱ヘ修業スト云、一ハ六字ノ名号ヲ彫リ、一ハ彫附ナク形モ稍異ナリ、其図左ニ載ス
姥堂
(境内東西五間、南北七間、免除地)阿弥陀堂ノ西北ニ続ク、草建ノ年月知ス、奪衣婆ノ木像ヲ安ス、八葉寺司ナリ(「新編会津風土記」より)
八葉寺の参拝順路
- 空也清水
今から千年以上前の康保元年(九六四)、空也上人は奥州巡錫中、紫雲たなびく当地にたどり着き、一宇を建立した。そしてひとつは浄水不足に悩む村人のため、ひとつは阿弥陀如来にお供えする閼伽水を得るため、独鈷杵をもって此処を堀り、浄水を得た。その末流に美しい八葉の白蓮華が咲き誇ったので、寺号を八葉寺と名付け、入滅に至るまでここに逗留し、教えを広めたと伝える。 - 本堂(阿弥陀堂)お塔婆授与所
【御本尊】阿弥陀如来
【建物】方三会間、単層入母屋、妻入、茅葺
【由来】
空也上人が近隣の野ざらしにされた遺骸をここに集め、鄭重に供養されたことから諸陵山と号している。この御堂は浄土庭園の様式をとる当山の中心となっている。上人の創建以後幾度か焼亡し、現在の御堂は、現存する棟札や堂内の落書から、天正十七年(一五八九)伊達政宗の戦禍以前、室町後期の建立とされている。最近では大正十四年の解体修理、平成十二年の失火による半焼後の大修理などによって保存がはかられている。毎年八月の会津高野山詣りは、平成十二年、国により新たに「早急に記録すべき重要無形文化財」に指定された。 - 閻魔堂
- 茶湯場
- 奥の院 お塔婆納め所
【御本尊】阿弥陀如来
【由来】
空也上人は奥州巡錫中、会津の野辺たる当地に至り、こここそが探していた紫雲たなびく霊地だと思い定め、近隣の野ざらしにされた遺骸を集め、丁寧に埋葬して供養された。このことから、いつしか当地が精霊の集まる地として会津一円の人々の信仰を集めるようになった。後世の人々はこれに習い、毎年八月一日から七日までの間に一族揃って盆迎えのために参詣し、先亡精霊が無事に里帰りできるようにと祈って塔婆(カナガラボトケ・カカジョともいう)を納めた。また古く室町時代から、故人の遺骨、遺髪、爪、歯等を納めた木製の五輪塔を建立し、多くのご先祖様が鎮まる当地に合祀する風習が続いている。古来より祖霊集会之霊場、会津葬菩提所、会津高野山などと称される由縁である。
【ご真言】オンアミナリタテイゼイカラウン
【お念仏】南無阿弥陀仏 - 姥堂
- 空也上人墓所
天禄三年(九七二)九月十一日、当地で往生され、遺言にしたがってここに埋葬された。
【ご宝号】南無空也大上人 - 開山空也上人堂
八葉寺所蔵の文化財
- 八葉寺奉納小型納骨塔婆及び納骨器(国指定重要有形民俗文化財)
- 観応の碑(会津若松市指定文化財)
- 猪苗代勢武将等の供養碑群
八葉寺奉納小型納骨塔婆及び納骨器
小型納骨塔婆及び納骨器は、通称木製五輪塔といい、国指定分は現在一四、八二四体を数える。
この塔は、かつて阿弥陀堂の柱や壁板に打ち付けられていたが、大正十五年の解体修理の際に奥之院に移された。その後昭和五十九年度国庫補助により建設されたこの収蔵庫に、昭和六十年九月に移しかえられた。
会津では高野山参りといって、毎年八月一日から七日まで会式が行われ、その年家族に不幸があった場合、喪中が過ぎれば死者の歯、骨、爪、髪の毛等を塔に納め、阿弥陀堂に奉納する。
五輪塔は会式中、毎日施餓鬼供養をして法要を済ませ、一年を経て、奥之院に納められる。
納骨器等の形態は五輪塔形のものが最も多く、朴、杉、檜、桐、松などで作られている。最も古いものには、文禄四年(一五九五)の銘がある。この風習は現在も行われており、全国的に貴重なところから、昭和四十七年四月県指定となり、その後昭和五十六年四月国の重要有形民俗文化財に指定された。(会津若松市教育委員会掲示より)
観応の碑
この碑は観応四年(観応三年に文和と改元されているので文和二年・西暦一三五三年)阿闍梨深泉が父郎満の菩提のために、その十三回忌に建立したものです。
高さ一八〇センチ、幅一一五センチの自然石の中央上部に梵字「ア」とあり、大日如来(胎蔵界)真言を示すものです。(会津若松市教育委員会掲示より)
猪苗代勢武将等の供養碑群
中世会津の戦国時代は内乱を繰り返していた。葦名十五代の当主盛舜の代に起きた大永元年(一五二一)六月十六日の猪苗代盛光の反乱は盛舜の家臣松本新蔵人・宇門・塩田刑部らの猪苗代方への内応によるものであったが、盛舜の軍勢に反撃され敗走し、この八葉寺まえ逃げ自害、あるいは討たれて謀叛側の失敗に終わった。これらの供養碑群は八葉寺周辺の丘陵地帯に散在していたが昭和五十二年度の県営圃場整備に伴いこの地に移された。(会津若松市教育委員会掲示より)
八葉寺の周辺図
参考資料
- 「新編会津風土記」