建福寺。福島県会津若松市建福寺前にある臨済宗妙心寺派寺院

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大寶山建福寺。鉄舟禅師開山、会津保科・松平氏の香華院

建福寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の建福寺は、大寶山と号します。建福寺は、徳川秀忠公の第四子保科肥後守正之公が寛永20年(1643)会津に移封した際、随従してきた信州高遠保科家の菩提寺大宝山建福興国禅寺の鉄舟禅師が、正保4年(1646)に開山したといいます。延宝8年(1680)当地周辺を拝領、貞享2年(1685)には三代藩主松平正容公が江戸芝東禅寺三世黙水禅師を迎えて、建福寺中興の祖として寺領100石を寄進、会津保科・松平氏の香華院となっていたものの、戊辰戦争により灰燼に帰してしまったといいます。会津七福神の福禄寿です。

建福寺
建福寺の概要
山号 大寶山
院号 -
寺号 建福寺
住所 福島県会津若松市建福寺前7-3
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



建福寺の縁起

建福寺は、徳川秀忠公の第四子保科肥後守正之公が寛永20年(1643)会津に移封した際、随従してきた信州高遠保科家の菩提寺大宝山建福興国禅寺の鉄舟禅師が、正保4年(1646)に開山したといいます。延宝8年(1680)当地周辺を拝領、貞享2年(1685)には三代藩主松平正容公が江戸芝東禅寺三世黙水禅師を迎えて、建福寺中興の祖として寺領100石を寄進、会津保科・松平氏の香華院となっていたものの、戊辰戦争により灰燼に帰してしまったといいます。

境内掲示による建福寺の縁起

大寶山建福寺縁起
徳川二代将軍秀忠公の第四子・保科肥後守正之公が寛永二十年(1643)八月、会津二十三万石の城主として移封してきた。このとき正之公に随従してきた信州高遠の保科家菩提寺、臨済宗妙心寺派大宝山建福興国禅寺の鉄舟禅師が正之公の養祖父・保科正直公・養父保科正光公の位牌を持して、正保四年(1646)南町川原新丁の長福寺跡に開山した。
慶安三年(1650)十月、鉄舟禅師が没し、その後を笑厳禅師・黙堂禅師と継ぎ、延宝八年(1680)三月二十四日、道義様(養父保科正光公)の五十回忌法要を前に、北青木(恵倫寺と善龍寺の間)の廃寺となっていた浄土宗鞍見山正光寺跡地を賜わり、大伽藍を建立した。
仏門に入り「素行軒致休」と名乗った二代藩主保科正経公が、元和元年(1681)江戸三田邸て没し、葬儀は正経公の希望で建福寺において執り行われ、默堂禅師が導師を勤め、戒名を「鳳翔院殿前拾遺会陽太守宜山休公大居士」とした。
貞享二年(1685)三代藩主松平正容公は、江戸芝東禅寺三世黙水禅師を迎えて、当山中興の祖とし、建福寺を保護した。(寺領百石)
当山は、およそ一万坪の境内に壮大な伽藍(屋根はお城と同じ赤瓦の瓦葺き)を有し、会津保科・松平氏の香華院として、会津藩の庇護の下、藩祖保科正之公以来二百二十五年間の会津藩政とともに歩んできたが、明治元年(1868)の戊辰会津戦争ではことごとく廃塵と化し現在に至っている。
現在の堂宇は、明治三年(1870)鶴ヶ城の古材を拝領し、再建されたといわれる。
建福寺に眠る武士たちの墓地
〇初代正之公に従って会津入りした会津藩家老北原采女光次一族
〇会津藩家老神保内蔵助利孝一族
〇会津藩溝口派一刀流の始祖池上文左エ門安道
〇キリシタン弾圧に過酷に対応し、天草四郎時貞の一揆を誘発し、幕府からその不行届を咎められ領地没収、死罪となった島原藩主松倉長門守重次の弟で不運の武将松倉右近太夫重頼
〇越後の麒麟児といわれた長尾藩家老河井継之助埋骨の遺蹟
〇会津藩太子流師範中林弥一右衛門尚堅(境内掲示より)

「北会津郡誌」による建福寺の縁起

臨済宗大宝山建福寺
門田村黒岩ニアリ寛永二十年七月鉄舟和尚ノ開山ニ係リ観音菩薩ヲ本尊トシ山城国妙心寺ヲ本尊トス(「北会津郡誌」より)

「若松市史」による建福寺の縁起

(市外寺院)建福寺
臨済宗に屬し、善龍寺の北にあり、京都妙心寺の末寺にて、初め信濃の高遠にありしが、寛永十三年、土津公山形移封の時第四世鐡丹といふ僧、保科正直、同正光の位牌を持して山形に移り、同二十年また會津に從ひ来り、南町に住し延寶八年ここに移る。元禄中、徳翁公江戸芝東禅寺の僧黙水を請て中興の祖とし、爾来松平家の位牌を納む。(「若松市史」より)


建福寺の周辺図


参考資料

  • 「北会津郡誌」
  • 「若松市史」

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