常安寺。福島県喜多方市塩川町にある真言宗豊山派寺院

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黄梅山常安寺。会津三十三観音初番の大木観音堂

常安寺の概要

真言宗豊山派寺院の常安寺は、黄梅山と号し、大木観音堂として知られます。常安寺の創建年代等は不詳ながら、成安長者が観音堂として創建したと伝えられ、江戸期には黄梅山成安寺と号した真言宗寺院だったといいます。明治維新頃に常安寺と改号したようです。大木観音堂は、会津三十三観音初番です。

常安寺
常安寺の概要
山号 黄梅山
院号 -
寺号 常安寺
住所 喜多方市塩川町大田木字大木3281
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



常安寺の縁起

常安寺の創建年代等は不詳ながら、成安長者が観音堂として創建したと伝えられ、江戸期には黄梅山成安寺と号した真言宗寺院だったといいます。明治維新頃に常安寺と改号したようです。

「塩川町史」による常安寺の縁起

常安寺(塩川町大木)
『会津鑑」によると常安寺は、天正十七年の兵乱により火災となり、「什物傳記焼失」したという。言い伝えでは、徳一を開基とするが、『会津鑑』、『新編会津風土記』ともに成安長者による観音堂の創建を伝える。言い伝えには、信じがたいところもあるが、あるいは、在地の有力者の観音信仰により常安寺は創建されたのかもしれない。
その後に再建された常安寺について両資料は、真言宗弥勤寺の末寺であると記す。「会津領内寺院修験本末写」(『磐梯町史』資料編IV)にも「弥勤寺末」として「慶徳組大木村常安寺」の名がみえる。弥勅寺は山城国醍醐寺の松橋無量寿院の末であったので、常安寺は真言宗醍醐派に属する寺院であったことかわかる。
寺の本堂須弥壇上の厨子には、像高三二・七センチメートルの本尊地蔵菩薩坐像が安置されている。この像を安置する厨子の側面には「秋月妙光大姉霊位寛延三午天七月二日」の墨書がある。また、本尊の手前左側壇上には弘法大師像があり、像の背面に「奉再建文化六己巳年十一月廿一日施主當所辺見林重郎秀政」の墨書が、本尊の手前右側には覚鑁大師像が置かれ、「法印弘秀代求之」とある。寛延から文化年間にかけて、本堂内の厨子や開祖像が寄進され、整えられていった様子がわかる。
一方、境内仏堂である観音堂内の子安観音像を安置する厨子には、「安永八年己亥三月十八日」の墨書がある。観音堂の観音信仰の対象は、『会津鑑』にある「観音在焉座像」や「新編会津風土記」に記す「十一面観音の坐像」にではなく、安永八年(一七七九)のころには子安観音に移っていった様子が窺える。
また、観音堂に懸る鰐口には、「奉寄附鰐口皇家寓歳二世安楽志願成就奥州會津大木村常安寺照海住 享保五年庚子四月吉日」の銘が刻まれている。享保五年(一七二〇)は、江戸時代の中期である。これらの資料からは、観音信仰の対象となった尊像はかわっても、藩政期を通じて観音信仰そのものに大きな変化はなく、「会津三十三所順禮」の一番札所として地域信者の崇敬を集めていたことが知られる。(「塩川町史」より)

境内掲示による常安寺の縁起

大木観音堂
開基の詳細は不明であるが、言い伝えによると、成安長者による観音堂の創建を伝える。観音堂内の子安観音像を納める厨子には安永8年(1779)の墨書があり、観音堂に懸る鰐口には享保5年(1720)の墨書がある。また、本堂の本尊である地蔵菩薩坐像を納める厨子には寛延3年(1750)の墨書があり、同じく本堂の弘法大師像の背面には文化6年(1809)の墨書がある。これら寄進資料から江戸時代中期頃の観音信仰の隆盛を知ることができ、「会津三十三観音巡礼」の一番札所として地域信者の崇敬を集めていたことが知られる。
御詠歌 万代の願い大木の観世音 あの世とともに救け給えや(「極上の会津プロジェクト協議会”会津三十三観音めぐり”ストーリー」より)

「耶麻郡誌」による常安寺の縁起

第一番大木
堂島村字大木黄梅山成安寺境内に在り十一面觀音(長一尺三寸)の坐像を安す成安長者の持佛なりしといふ
よろつ世の ねかひは おほきのくわんせおん おんあのよと共に たすけたまへや(「耶麻郡誌」より)


いいお墓

常安寺の周辺図


参考資料

  • 「塩川町史」
  • 「新編会津風土記」