瑠璃光山勝常寺。徳一菩薩開基・国宝の会津中央薬師、会津三十三観音
勝常寺の概要
真言宗豊山派寺院の勝常寺は、瑠璃光山密蔵院と号します。勝常寺は、法相宗の徳一菩薩が開基となり、大同2年(807)あるいは弘仁元年(810)に開創、徳一菩薩が開創した会津五薬師の会津中央薬師堂とも呼ばれて、往時には七堂伽藍を備え、数百の子院・末寺を擁していたといいます。源平の争乱の後、いつしか真言宗寺院となり、堂宇も焼失したものの、薬師堂は応永5年(1398)に再建され、薬師堂は国指定重要文化財に、また薬師如来像と兩脇侍の日光・月光菩薩像は国宝となっているほか、仏像9像が国重要文化財に指定されるなど、数多くの仏像を収蔵しています。会津三十三観音めぐり10番です。
山号 | 瑠璃光山 |
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院号 | 密蔵院 |
寺号 | 勝常寺 |
住所 | 河沼郡湯川村勝常代舞1764 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
勝常寺の縁起
勝常寺は、法相宗の徳一菩薩が開基となり、大同2年(807)あるいは弘仁元年(810)に開創、徳一菩薩が開創した会津五薬師の会津中央薬師堂とも呼ばれて、往時には七堂伽藍を備え、数百の子院・末寺を擁していたといいます。源平の争乱の後、いつしか真言宗寺院となり、堂宇も焼失したものの、薬師堂は応永5年(1398)に再建され、薬師堂は国指定重要文化財に、また薬師如来像と兩脇侍の日光・月光菩薩像は国宝となっているほか、仏像9像が国重要文化財に指定されるなど、数多くの仏像を収蔵しています。
境内掲示による勝常寺の縁起
勝常寺の概観
勝常寺は大同二年(八〇七)、あるいは弘仁元年(八一〇)南都六宗の一つである法相宗を学んだ徳一上人の開基と伝えられている。
創建当時の建物は現存していない。
薬師堂は、会津中央薬師堂と呼ばれ、応永五年(一三九八)の再建で和様、唐様式の手法を加えた堂である。これ以外の建物は近世以後のものである。
仏像は、創建当時の仏像十二躰など三十余躰あり、平安初期の仏像が一寺院に十二躰も保存されているのは珍しいことである。(境内掲示より)
勝常寺栞による勝常寺の縁起
勝常寺は平安時代の初め807年(大同2年)[あるいは810年(弘仁元年)ともいわれる]に法相宗の碩学徳一上人によって開かれた東北を代表する寺院です。伝説によると磐梯山はその昔病惱山と呼ばれ、この山には魔物が棲みいろいろな災いを及ぼしていたのです。その為に会津の地は一年中霧に閉ざされて作物が実らず、病気になる人が大勢出て人々が大変苦しんでいるという事が平城天皇の耳に入り、弘法大師を会津に遣したというのです。
弘法大師は法力を以てこの魔物を退治し、将来に亘って会津の人々が平和で豊かな暮らしが出来るように守ってくださる薬師様の像を五体造り、会津の五か所に寺を建て、薬師様を本尊としてまつられたと伝えられております。勝常寺はその中央になるので、会津中央薬師といわれております。弘法大師が会津にこられたかどうかは別にして、徳一上人が会津におられたというのは歴史上の事実で、少なくとも818年(弘仁9年)以前に会津におられたと考えて良いのではというのが学説です。当時の勝常寺は七堂伽藍がならび、大勢の人が集まり学問をしていたと伝えられております。当時のお寺は学問をする事が第一の目的あったのえす。又、一時は子院・末寺が数百に及ぶ時代もあったと伝えられております。今は国宝、国指定重要文化財、村指定文化財、その他仏像三十余躯と建物二棟が残っております。勝常寺は、徳一上人という偉大な指導者のもとに会津の人々の手によってつくられたのです。その子孫である私達は、先祖の偉大な力と業を遺産として誇ると共に、後世に残す為の引き継ぎ者として努力しなければと思います。(勝常寺栞より)
勝常寺所蔵の文化財
- 薬師如来坐像一躯(国宝)
- 日光菩薩立像一躯(国宝)
- 月光菩薩立像一躯(国宝)
- 薬師堂(元講堂)一棟(国指定重要文化財)
- 十一面観音菩薩立像一躯(国指定重要文化財)
- 地蔵菩薩立像一躯(国指定重要文化財)
- 聖観音菩薩立像一躯(国指定重要文化財)
- 四天王立像四躯(国指定重要文化財)
- 地蔵菩薩立像(雨降り地蔵)一躯(国指定重要文化財)
- 天部像立像(伝虚空蔵菩薩)一躯(国指定重要文化財)
- 徳一菩薩坐像一躯(村指定文化財)
- 絹本着色両界曼荼羅図二幅(村指定文化財)
- 絹本着色真言八祖像掛軸八幅(村指定文化財)
- 絹本着色十二天画像掛軸十二幅(村指定文化財)
- 不動明王立像一躯(村指定文化財)
- 十二神将立像十二躯(村指定文化財)
勝常寺の周辺図