阿邪訶根神社。旧称御霊宮
阿邪訶根神社の概要
阿邪訶根神社は、郡山市大町にある神社です。阿邪訶根神社は康平年間(1058-1065)に伊勢国の阿邪訶より猿田彦命を勧請して創建、清原武衡へ向った平忠通公が寛治3年(1089)卒去した際に平忠通公を合祀、御霊宮と称していたといいます。明治12年村社に列格、明治22阿邪訶根神社と改称しています。当社の石造法華曼荼羅供養塔は福島県重要文化財に、石造浮彫阿弥陀三尊塔婆は郡山市重要文化財に、それぞれ指定されています。
社号 | 阿邪訶根神社 |
---|---|
祭神 | 猿田毘古命、平忠通公 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 郡山市大町2-14-1 |
備考 | - |
阿邪訶根神社の由緒
阿邪訶根神社は康平年間(1058-1065)に伊勢国の阿邪訶より猿田彦命を勧請して創建、清原武衡へ向った平忠通公が寛治3年(1089)卒去した際に平忠通公を合祀、御霊宮と称していたといいます。明治12年村社に列格、明治22阿邪訶根神社と改称しています。
境内掲示による阿邪訶根神社の由緒
阿邪訶根神社
康平年中(1060年頃)伊勢の国の阿邪訶(あざか)より猿田毘古命の御分霊を迎え奉り『道祖神社』として創建されたのが始まり。副将として下向の平忠通公が亡くなられると、その御霊を合祀し社名を『御霊宮』と改め、明治22年(1889年)社名を『阿邪訶根(あさかね)神社』と改称。邇邇芸(ににぎ)命の道案内をされた猿田毘古命の御神徳から、道開きの神、交通安全と安産の神として崇敬されている。(境内掲示より)
「安積郡誌抄」による阿邪訶根神社の由緒
村社阿邪訶根神社
祭神は平忠通の霊なり公は平良文の嫡男副将として清原武衡征伐のため寛治二年当地へ発向同三年卒去せられたるにより其霊を此処に祭れるなり明治十二年十月四日村社に列せられ同四十年三月神饌幣帛料供進社に指定せらる此神社の境内に曼荼羅の碑あり高さ六尺餘上に梵字を刻す漫漶毀損して読む可らず独り治暦三丁未年三月と刻し脚部に〇恵良邦〇円〇円頼円先照の文字僅に得て認むべし
相伝ふ源将軍頼義東征の時営を此に駐め千僧を招き萬部の法華経を誦し以て賊徒降伏のことを祈る因て此碑を建つといふ(「安積郡誌抄」より)
阿邪訶根神社所蔵の文化財
- 石造法華曼荼羅供養塔(福島県指定重要文化財)
- 石造浮彫阿弥陀三尊塔婆(郡山市指定重要文化財)
石造法華曼荼羅供養塔
この供養塔は、高さ二七五cm、幅一三三cm、厚さ三一cmで、安山岩質凝灰岩で造られています。頭部の形は、東北地方に一般的な山形で額があり、塔の上方に仏の姿をあらわす種子(梵字)が刻まれています。種子の配列により法華経の世界を描いた曼荼羅と考えられていますが、風雪による摩耗などから一部が見えづらくなっています。
中心の種子は阿弥陀如来(釈迦如来との説もあり)で、そのまわりに四眷属の種子が配列され、各仏は清浄をあらわす丸い月輪で囲まれています。上の方には観音菩薩を、下の方には勢至菩薩をあらわしたと思われる種子がみえます。さらにその外側には八尊の種子が、曼荼羅の下方には供養に携わった僧の名前が上下二段に刻まれています。
左上部に治暦三(一〇六七)年の年号(平安時代中期)が刻まれていますが、後世に追刻されたものと考えられます。
しかし、形状等からみて、鎌倉時代前期に造られた遺品と考えられ、極めて貴重な考古資料であることに変わりはありません。(郡山市教育委員会掲示より)
石造浮彫阿弥陀三尊塔婆
高さが九十一cm、幅六十ニcm、厚さ十六cmのこの塔婆は、俗に「福原石」と呼ばれ親しまれています。
材質は安山岩質凝灰岩です。
図柄は福島県に多く見られる表現方式で、左右に配された観音菩薩と勢至菩薩が、中央の阿弥陀如来に向かって膝をかがめて供養しているような形をとっています。また、観音菩薩は極楽浄土に生まれ変わる者を取り上げるための蓮台を持っています。
三尊像は一部剥離している部分がありますが、周りの縁との厚さは等しく、東北地方にみられる一般的な塔婆に比べ少し薄手のようです。
塔婆の縁は厨子(三尊を安置する容器)の形を表現していると思われ、三尊像の背後には光背や飛雲は見あたりません。
制作年は不明ですが、鎌倉時代末期の作と思われます。(郡山市教育委員会掲示より)
阿邪訶根神社の周辺図
参考資料
- 「安積郡誌抄」