益多嶺神社。延喜式神名帳式内社、甲子大国社、字多行方標葉の総社
益多嶺神社の概要
益多嶺神社は、南相馬市小高区大井にある神社です。益多嶺神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が東国平定に際して勧請したと伝えられ、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳所載の「益多嶺神社」に比定されます。その後甲子大宮大明神、甲子大国社などと称され、江戸期には字多・行方・標葉の総社として藩主より尊崇を受け、文政年間(1818-1830)より益多嶺神社と改めたといいます。
社号 | 益多嶺神社 |
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祭神 | 大国主大神、少彦名大神 |
相殿 | - |
境内社 | 弁天様・天神様・田の神様 |
祭日 | 大祭4月8日 |
住所 | 南相馬市小高区大井字宮前144 |
備考 | - |
益多嶺神社の由緒
益多嶺神社の創建年代等は不詳ながら、日本武尊が東国平定に際して勧請したと伝えられ、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳所載の「益多嶺神社」に比定されます。その後甲子大宮大明神、甲子大国社などと称され、江戸期には字多・行方・標葉の総社として藩主より尊崇を受け、文政年間(1818-1830)より益多嶺神社と改めたといいます。
境内掲示による益多嶺神社の由緒
第十二代景行天皇の御代日本武尊東夷平定の際(一一〇年)勧請する神社である。御祭神は出雲大社より御分霊の霊魂安定殖産興業の神大国主大神、医薬学問の祖神少彦名大神(境内掲示より)
「小高町史」による益多嶺神社の由緒
古来甲子大宮大明神または甲子大国社といったが、文政(一八一八~三〇)以来益多嶺神社という。応永二年(一三九五)中の郷北原邑より大井邑に移り、武道・五穀・養蚕の神として、他県より甲子講を組織しての参詣者が多い。藩主は字多・行方・標葉の三郡即ち領内の総社として崇敬し、社領の外毎戸二合五勺を御供米として徴集し奉納した。
境内に弁天様・天神様・田の神様(「小高町史」より)
益多嶺神社の周辺図
参考資料
- 「小高町史」