猫の足あとによる板橋区・東京都・首都圏の寺院、神社など寺社案内

猫の足あとによる東京都寺社案内

志村熊野神社|板橋区志村の神社、志村将監勧請、志村城跡

志村熊野神社の概要

志村熊野神社は、板橋区志村にある熊野神社です。志村熊野神社は、長久3年(1042)志村将監が勧請したと伝えられており、古墳上に社殿が鎮座しています。康正2年(1456)に千葉自胤が赤塚城に、千葉信胤が当地の志村城に入城し、当社を志村城の守護神としました。大永四年千葉氏滅亡後は志村七ケ村(志村・小豆澤・根葉・前野・中臺・西臺・蓮沼)の総鎮守となり(江戸期には志村と中台のみ)、明治5年村社に列格、大正13年に郷社に列格していました。

志村熊野神社
志村熊野神社の概要
社号 志村熊野神社
祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命、事解男命
相殿 -
境内社 大山阿夫利神社、榛名神社、御嶽神社、天照皇大神宮、八幡神社、桃花稲荷神社、溜下稲荷神社、石神社
住所 板橋区志村2-16-2
備考 志村城跡、城山幼稚園併設、志村七村の鎮守、郷社



志村熊野神社の由緒

志村熊野神社は、長久3年(1042)志村将監が勧請したと伝えられており、古墳上に社殿が鎮座しています。康正2年(1456)に千葉自胤が赤塚城に、千葉信胤が当地の志村城に入城し、当社を志村城の守護神としました。大永四年千葉氏滅亡後は志村七ケ村(志村・小豆澤・根葉・前野・中臺・西臺・蓮沼)の総鎮守となり(江戸期には志村と中台のみ)、明治5年村社に列格、大正13年に郷社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による志村熊野神社の由緒

(志村)
熊野社
社後丘上石祠に彌陀薬師観音の像を彫る、是を奥の院と唱ふ、古は當村及び小豆澤・根葉・前野・中臺・西臺・蓮沼等七ヶ村の鎮守なりしが、今は當村と中臺村のみの鎮守となれり、社地は則城蹟なりと云、延命寺持、
末社八幡(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による志村熊野神社の由緒

後朱雀天皇の長久3年(1042)この地の豪族志村将監が紀州熊野より勧請したものと伝えられています。
天喜年中八幡太郎義家が父頼義と共に奥州追討のとき武運長久の祈願をしました。
康正2年(1456)千葉隠岐守信胤が、西部に城砦を築き城内鎮守として厚く崇敬しました。社殿西側の低地は本丸と二ノ丸との間にあった空濠の跡です。(板橋区教育委員会掲示より)

板橋区教育委員会掲示による熊野神社と志村城跡

志村城は、康正2年(1456)に千葉自胤が赤塚城に入城した際、一族の千葉隠岐守信胤が入城して、赤塚城の前衛拠点とした。
本丸は志村小学校を中心とする一帯の丘陵地で、出井川と荒川をめぐらせ”守るに易く攻めるに難し”といわれる堅城であったが、大永4年(1524)に北条氏綱に攻められて落城した。
熊野神社は志村城二ノ丸にあたり、社殿は古墳上に建てられている。長久3年(1042)、志村将監が紀州から勧請したと伝えられており、千葉自胤が志村城の守護神と定めた。現在の社殿は昭和32年に改築されたものである。社殿の西側には今でも空濠の跡を見ることができる。(板橋区教育委員会掲示より)

「いたばしの神社」による志村熊野神社の由緒

長久三年志村将監が紀州熊野からの勧請と伝えられる。天喜年中源頼義、義家が奥州追討の際武運長久を祈願され、その後康正年間千葉穏岐守信胤、この地域山の西北部に城砦を築き社殿の改修神地奉献を行ったという。大永四年千葉氏滅亡後は志村七ケ村の総鎮守となる。明治五年十一月十九日村社に、大正十三年七月五日に郷社に列せらる。康正年間銘の古碑あり。(「いたばしの神社」より)

東京都神社名鑑による志村熊野神社の由緒

長久三年(一〇四二)この地の豪族志村将監が紀州熊野より勧請したと伝えられる。昔の本殿は奥の院といって、石造の小祠であったが、この柱石に長久三年(一〇四二)と刻してあったことと、後に発掘された古鏡が藤原時代のもんであることにより、御創建の時代が推定される。天喜年中(一〇五三-八)、源頼義・義家が奥州追討のさい、武運長久を祈願し、境内に八幡社を奉斎したといわれている。康正二年(一四五六)千葉隠岐守信胤がこの地に城砦を築き、二の丸鎮座の当社を守護神として尊崇し、社殿の改修、神地の奉献を行なった。大永四年(一五二四)正月、千葉氏滅亡の後は、志村七ヶ村の総鎮守として、近郷住民の崇敬をあつめてきた。(東京都神社名鑑より)


志村熊野神社所蔵の文化財

  • 志村熊野神社の樹林(板橋区文化財)

志村熊野神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「いたばしの神社」
  • 東京都神社名鑑