萬吉山松月院|千葉自秀が一族の菩提寺として開基
松月院の概要
曹洞宗寺院の松月院は、萬吉山宝持寺と号します。松月院は、古くから当地に存在していた宝持寺を、千葉自秀が曹洞宗の千葉一族の菩提寺として、明応壬申子年(延徳4年1492年)4月に松月院と改めて創建したといいます。徳川家康の入府後は石高40石、境内15,000坪の除地を与えられた御朱印寺でした。現在も境内3,860坪、1,000戸超の檀家を抱える大寺だといいます。
山号 | 萬吉山 |
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院号 | 松月院 |
寺号 | 宝持寺 |
住所 | 板橋区赤塚8-4-9 |
本尊 | 南無釈迦牟尼仏 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 境外堂:大堂 |
松月院の縁起
松月院は、古くから当地に存在していた宝持寺を、千葉自秀が曹洞宗の千葉一族の菩提寺として、明応壬申子年(延徳4年1492年)4月に松月院と改めて創建したといいます。徳川家康の入府後は石高40石、境内15,000坪の除地を与えられた御朱印寺でした。現在も境内3,860坪、1,000戸超の檀家を抱える大寺だといいます。
新編武蔵風土記稿による松月院の縁起
(下赤塚村)松月院
禅宗曹洞派、上野國群馬郡白井村雙林寺の末、萬吉山寶持寺と號す、本尊釋迦を安す、寺領四十石は天正十九年十一月御朱印を賜へり、開山曇英慧翁永正元年十月十四日寂す、開基千葉介自秀永正三年六月廿三日卒す、法名松月院南州玄参、境内に其墓あれど後年建しものなるべし、按に自秀と云へるは千葉系圖等に所見なし、恐くは自胤の誤ならん、自胤は當所に住せし人なり、事は下の城跡の條に詳なり、
鐘樓。延寶五年鑄造の鐘をかく
禅堂
神明白山合社。門前の塚上に立り、土人は土跡と呼ぶ、是村の名の因て起れる赤塚ならんなど、土人いへり、(新編武蔵風土記稿より)
いたばしの寺院による松月院の縁起
本寺については四神地名録・新編武蔵風土記稿・武蔵野話・江戸名所図会・遊歴雑記・武蔵通志・等に記載されているが、通説では明応壬申子年(延徳4年:1492)4月に千葉自秀(七郎二郎)を開基とし、曇英(慧応)を開山として創建されたという。自秀は永正3年6月23日卒し、松月院南州玄参と墓石に刻され、曇英は永正元年10月14日寂し、宝光智照禅師曇英慧応大和尚と位牌に残る。雲英は上野国群馬郡白井村雙林寺の第3世であった。
千葉自胤は、父実胤の在城下総国市川城が康生2年正月19日成氏のため落城させられると、遁れて赤塚城に入った。
それから三十数年の後、従来から存在していた宝持寺をあらためて千葉一族の菩提寺となし宗派を曹洞宗を以てし、院号を「松月院」と称し自ら中興開基となり、延徳4年(1492)11月5日に寺領を寄進したものと考えられる。これより前、古寺のあったことは元徳元年(1329)銘の比丘尼了雲の墓石の残存によって知られる。
松月院は既に500年以上も経過した古寺であり大寺である。そして、千葉家の菩提寺であった為その寺紋は千葉家の紋所「月星」を以てしている。
天正18年(1590)8月1日徳川家康が江戸に入るや、翌天正19年11月に寺領40石を寄進した。代々の将軍も先例にならい40石の朱印状を交付して幕末に至った。
天保12年(1841)5月9日、高島秋帆が幕命により徳丸ヶ原に於て、隊員と共に洋式砲発射訓練をした際は、三日間本寺を本陣として使用した。なお、三遊亭円朝の「怪談乳房榎」や、下村湖人の「次郎物語」は、本寺を中心とした付近の風物がモデルとして多く採り入れられている。 (いたばしの寺院より)
松月院所蔵の文化財
- 徳川将軍朱印状(板橋区文化財)
- 伝千葉一族の墓地(板橋区文化財)
- 松月院のヒイラギ(板橋区文化財)
- 大堂閻魔王坐像(板橋区文化財)
- 大堂阿弥陀如来坐像(板橋区文化財)
- 赤塚村役場跡(板橋区文化財)
松月院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの寺院」