大堂|板橋区赤塚にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

大堂|区内最古の寺、松月院境外堂

大堂の概要

大堂は、古墳上に建てられた阿弥陀堂で、区内最古の寺といわれています。建武延元頃(1300年頃)には、七堂伽藍を備えた大寺院で真福寺・泉福寺を擁していたことから、大堂と称されています。永禄4年(1561)に、越後の上杉謙信が小田原の北条氏を攻めた際に焼打ちされたといわれ、江戸期に松月院の境外堂となりました。

大堂
大堂の概要
山号 勝参山
院号 -
通称 大堂
住所 板橋区赤塚6-40-7
本尊 阿弥陀如来
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 松月院の境外堂



大堂の縁起

大堂は、古墳上に建てられた阿弥陀堂で、区内最古の寺といわれています。建武延元頃(1300年頃)には、七堂伽藍を備えた大寺院で真福寺・泉福寺を擁していたことから、大堂と称されています。永禄4年(1561)に、越後の上杉謙信が小田原の北条氏を攻めた際に焼打ちされたといわれ、江戸期に松月院の境外堂となりました。

新編武蔵風土記稿による大堂の縁起

(下赤塚村)阿弥陀堂
土俗大堂と称す、阿弥陀は聖徳太子の作、坐長三尺縁起の文に拠に、此堂の起立は建武延元の頃七堂伽藍の荘厳あり、故に大堂と称す、其頃泉福寺・真福寺の両寺大別当たり、上6坊、下6坊と称して12の脇坊あり、夫より星霜を経て永禄4年上杉輝虎小田原へ乱入の時此辺兵火の衛となり、堂宇悉く烏有となりしより今の如く衰微せしと云、今村内に上寺家下寺家の小名残れるは、彼脇坊の遺名なりと云、真福寺は廃して今泉福寺此堂を進退せり、
鐘楼。暦應の古鐘をかく、大さ長五尺口の渡り二尺二寸許、 (新編武蔵風土記稿より)

いたばしの寺院による大堂の縁起

古墳上に建てられた瓦葺の阿弥陀堂であるが、通称「大堂」と呼ばれる。区内最古の寺であるといわれる。堂前の鐘楼にかけられた重要美術品認定の鐘銘によれば、建武延元頃には七堂伽藍をそなえた寺であったという。付近に上寺家、下寺家の小名が残されている。
口碑によれば、永禄4年(1561)に、越後の上杉謙信が小田原の北条氏を攻めた時、ここが行軍の道中にあたり焼打ちされたという。
江戸時代から文人風流人の愛好する処で、特に梵鐘を見んとする者、道を遠しとせず杖を引いたという。
この地は、大正14年5月に府指定の「旧跡」となり、梵鐘は昭和24年5月に「重要美術品」に認定されている。(いたばしの寺院より)


大堂所蔵の文化財

  • 大堂(東京都指定文化財)
  • 大堂の梵鐘(国重要美術品)

東京都教育委員会掲示による大堂の案内

この地域は江戸時代は江戸幕府の直轄地(幕領)であり、豊島郡峡田領下赤塚村に属していた。大堂とはここでは阿弥陀堂のことで、「新編武蔵風土記稿巻之十四」によると、南北朝時代の建武・延元の頃(1334-40)は、七堂伽藍をそなえた大寺院であったので、村人は大堂と称していたという。永禄4年(1561)3月長尾景虎(上杉謙信)が上杉憲政を奉じて北条氏康を小田原に攻めた際に、堂宇悉く焼き打ちにあって焼失したといわれている。
文化11年(1814)2月に大堂を訪れた小石川本法寺の老僧十方庵敬順は、「往還の西角にして小高き処にあり、則ち石段を登る拾四五段、本尊は坐像の弥陀、御長ニ尺四五寸ばかりと覚ゆ」と紀行文「遊歴雑記」に書いている。
東側の赤塚八幡神社は、江戸時代から下赤塚村の鎮守社で、明治初年の神仏分離令によって神社の参道から右は八幡社、左は大堂と分けられている。
南北朝時代の暦応3年(1340)鋳造の梵鐘と鎌倉時代末期の制作といわれる本尊阿弥陀如来坐像は共に有名で、江戸市中からの参詣客が絶えなかったといわれている。(東京都教育委員会掲示より)


大堂の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「いたばしの寺院」