南蔵院|板橋区蓮沼町にある真言宗智山派寺院

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宝勝山南蔵院|関東三十六不動、豊島八十八ヶ所霊場

南蔵院の概要

真言宗智山派寺院の南蔵院は、宝勝山蓮光寺と号します。南蔵院の開基開山について不詳ですが、寛永7年頃に志村坂下に開創したとされています。享保年間に当地へ移転、8代将軍吉宗の時に御膳所として使用されました。昭和2年、隣にあった末寺金剛院を合併し、現在に至ります。豊島八十八ヶ所霊場77番札所、関東三十六不動第12番です。

南蔵院
南蔵院の概要
山号 宝勝山
院号 南蔵院
寺号 蓮光寺
住所 板橋区蓮沼町48-8
本尊 十一面観世音菩薩
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 豊島八十八ヶ所霊場34番札所、関東三十六不動第12番、もと蓮沼氷川神社別当



南蔵院の縁起

南蔵院は、開基開山について不詳ですが、寛永7年(1630)頃に志村坂下に開創したとされています。享保9年(1724)に当地へ移転、また8代将軍吉宗の時に御膳所として使用されました。昭和2年、隣にあった末寺金剛院を合併し、現在に至ります。

板橋区教育委員会掲示による南蔵院の縁起

真言宗 寶勝山蓮光寺と号する。本尊は十一面観音、弘法大師がお護摩の灰をもってご自作された自像、また行基菩薩作の阿弥陀像と伝えられる各像を安置する。
当寺はもと荒川の近く志村坂下に創建され、開基を新井三郎盛久の一族が戦乱を避けてここに土着し、建立したという。
享保7年(1722)8代将軍吉宗が戸田川(荒川)で鷹狩りを行った時、御膳所と定めた由緒ある寺であるが、度重なる荒川の氾濫のため寺宝の一切を失ってしまった。享保9年(1724)、この水禍を避けるため、氏神と共に現地丘上に移った。神仏混交の時代、この寺が別当をしていた蓮沼氷川神社を俗に「十度の宮」と呼んでいた。出水の都度流失し、社殿が移動した結果の呼称である。その後、隣寺金剛院を合併し現在に至る。(板橋区教育委員会)

いたばしの寺院による南蔵院の縁起

人皇109代明正天皇の御宇寛永7年頃開創と当山の縁起にあるも、開基開山ともに不詳。度重なる出水のため記録類のすべてを失う。新編武蔵風土記稿によれば開基は村民三郎右衛門の先祖新井盛久、開山は宥照と伝える。寛文2年3月28日頃は志村坂下にあったが、第5世宥照和尚が開山となり、享保年間に現在地に移転したという。享保7年11月25日将軍吉宗が遊猟の際膳所となり白銀を賜る。昭和2年隣寺明王山金剛院を合併して今日に至る。
昭和53年5月14日に、坂下2-24-14に「南蔵院寺屋敷址」の記念碑を立つ。
不動堂
「新編武蔵風土記稿」に「金剛院、同門徒。命王山と号す、本尊不動」とあるが、もと隣寺金剛院持であったのを昭和2年に境内に移したものである。昭和52年改築の際、次の棟札を発見した。「奉棟上天御中主神堂営永久吉祥。天保4年大工小豆沢村住人。石塚内記藤原光好」(いたばしの寺院より)

新編武蔵風土記稿による南蔵院の縁起

新義真言宗、足立郡横曽根村吉祥院末、宝勝山蓮光寺と号す、本尊十一面観音傍に弘法大師自作の坐像安す、開山宥照、開基は村民三郎右衛門が先祖新井三郎盛久なりと云、享保7年11月25日有徳院殿此辺御遊猟の時始めて御膳所に命ぜられし時の住僧拝謁して白銀を賜ふ、金剛院同門徒命王山と号す。(新編武蔵風土記稿より)


南蔵院所蔵の文化財

  • 南蔵院の庚申地蔵(板橋区文化財)

南蔵院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「いたばしの寺院」