幡場山文殊院|豊島八十八ヶ所、板橋七福神の毘沙門天
文殊院の概要
真言宗豊山派寺院の文殊院は、幡場山大聖寺と号します。文殊院は、板橋宿本陣の飯田家の菩提寺として江戸時代初期に創建されました。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝えられています。豊島八十八ヶ所霊場18番札所、北豊島三十三ヶ所霊場18番札所、板橋七福神毘沙門天です。
山号 | 幡場山 |
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院号 | 文殊院 |
寺号 | 大聖寺 |
住所 | 板橋区仲宿28-5 |
本尊 | 文殊菩薩 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 豊島八十八ヶ所霊場18番札所、北豊島三十三ヶ所霊場18番札所、板橋七福神毘沙門天 |
文殊院の縁起
文殊院は、板橋宿本陣の飯田家の菩提寺として江戸時代初期に創建されました。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝えられています。
板橋区教育委員会掲示による文殊院の縁起
真言宗豊山派、幡場山大聖寺と号す。本尊は文殊菩薩。 江戸初期、本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立された。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝える。天保6年に全焼し、安政以降正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ転住し、出世寺とも呼ばれた。 山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る閻魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現がある。閻魔堂内には、文化年間に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られている。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されている。 飯田家墓地の飯田静の墓碑は昭和63年度に、また本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録された。(板橋区教育委員会掲示より)
いたばしの寺院による文殊院の縁起
江戸初期、板橋宿の名主、本陣の飯田家の菩提寺として、それ以前から既に信仰を集めていた延命地蔵の境内をひろげて建立された。天保6年に全焼し、続いて天明5年、明治17年と火災・風害にあい、建物古記録等悉く焼失してしまった。特に安政以降は正住職をおかず、赴任の仮住職も多くは短期間で他の大寺へ転住して行ったので、世に智慧山出世寺と宣伝された。このことは却って檀徒の散逸、境内の削減に大きく影響し、明治の中葉には閻魔堂の除地までも失った。明治40年には小規模の堂宇が整ったが、それも大震災で大破してしまった。大正の中期までは選任の住職は不在であったらしいが、現住職の来住によって漸く今日の面目に復興した。 昭和15年に旧来の本末の関係を打ち切り、奈良県の総本山長谷寺に直属した。しかして戦後は法改正により旧の本末関係は消滅している。(いたばしの寺院より)
新編武蔵風土記稿による文殊院の縁起
新義真言宗上板橋村安養院門徒、幡場山と号す。 本尊文殊、墓所に性恵法印寛文12年7月19日と勒せる碑あり、是開山の僧ならんと云、什宝に雷斧一つ所蔵せり。(新編武蔵風土記稿より)
文殊院所蔵の文化財
- 飯田静の墓碑(板橋区登録文化財)
- 本尊文殊菩薩(板橋区登録文化財)
文殊院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの寺院」