光明山日曜寺|豊島八十八ヶ所
日曜寺の概要
真言宗霊雲寺派の日曜寺は、光明山愛染院と号します。日曜寺は、正徳の頃(1711-1716)に宥慶比丘が小堂を営んだのに始まり、田安宗武(八代将軍吉宗の第2子)の帰依により寺院としての伽藍を整えました。豊島八十八ヶ所霊場49番札所、北豊島三十三ヶ所霊場17番札所です。
山号 | 光明山 |
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院号 | 愛染院 |
寺号 | 日曜寺 |
住所 | 板橋区大和町42-1 |
本尊 | 愛染明王 |
宗派 | 真言宗霊雲寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 豊島八十八ヶ所霊場49番札所、北豊島三十三ヶ所霊場17番札所 |
日曜寺の縁起
日曜寺は、正徳の頃(1711-1716)に宥慶比丘が小堂を営んだのに始まり、田安宗武(八代将軍吉宗の第2子)の帰依により寺院としての伽藍を整えました。
いたばしの寺院による日曜寺の縁起
開山は正徳年代に宥慶比丘が当地に小堂を営んだのに始まると伝えられ、享保年間に宥慶比丘に帰依する田安宗武(吉宗公第二子)により伽藍造営、祈願寺として再興された。宗武は等身大の愛染明王像をはじめ仏像、仏画、曼荼羅、什器等を奉納し当寺を深く尊信していた。更に宗武公の第三子松平定信(白河楽翁)も山門の扁額を奉納するなど篤信していた。また愛染明王の十種の霊験と共に、愛染が藍染に通じるところから江戸市中の染色業者の信仰をあつめるところとなり、また愛染の語句から縁結びの仏とされ、老若男女踵を接する縁日も永く昭和20年まで続いて来たが第二次大戦で被災し、わずかに山門を残して堂宇悉く焼失した。その後、昭和45年新本堂が落慶され、次いで昭和51年の書院庫裡の落成を見て現在に至る。
なお被災前迄の本尊愛染明王(1尺6寸)は弘法大師作と伝えられている。(いたばしの寺院より)
板橋区教育委員会掲示による日曜寺の縁起
宗派は真言宗霊雲寺派で、光明山愛染院日曜寺と号し、御本尊は愛染明王です。
開山は、正徳の頃(1711-1716)に宥慶比丘が小堂を営んだのに始まります。その後、田安宗武(八代将軍吉宗の第2子)の帰依をうけ、等身大の愛染明王像をはじめ多くの仏像や仏画、什器類が奉納され、寺として再興致しました。
現在、山門には独特の草書体で揮毫された額が架けられていますが、これは文化12年(1815)7月2日に宗武の子、松平定信が奉納したものです。太平洋戦争により伽藍や什宝類を焼失した当寺にとって、往時を現在に伝える唯一のもので、昭和60年度に板橋区有形文化財に登録されました。
愛染の語句から縁結びの仏として、また愛染が藍染に通じることから染色業の守り本尊として、古くから信仰を集めています。なお、境内にある水屋の手水鉢や石碑や寺を囲む玉垣は、染色組合の人たちが奉納したものです。(板橋区教育委員会掲示より)
日曜寺所蔵の文化財
- 日曜寺の扁額(板橋区有形文化財)
日曜寺の周辺図
参考資料
- 「いたばしの寺院」