妙傳寺。厚木市上依知にある日蓮宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

星梅山妙傳寺。星下りの梅樹、二天門・釋迦堂、本間重連公屋敷跡

妙傳寺の概要

日蓮宗寺院の妙傳寺は、星梅山星降院と号します。妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依、日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建したといいます(同様の伝えは妙純寺蓮生寺にも残され、また本間重連は依智に屋鋪三ヶ所所有していたともいいます)日蓮上人配流に際して、無量光寺開祖一遍上人は、当所觀音堂に来て日蓮上人と謁見、以来無量光寺と当寺とで音信を取り合っていたと伝えています。小田原北條家からも寺領を安堵され、江戸期には幕府より寺領7石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領していましたが、不受不施派の取り締まりにより廃寺となりかけたところを、茨城県加倉井妙徳寺の住僧日遥が当寺23世となり中興したといいます。

妙傳寺
妙傳寺の概要
山号 星梅山
院号 星降院
寺号 妙傳寺
本尊 三宝祖師像
住所 厚木市上依知2397
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



妙傳寺の縁起

妙傳寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあったとされる本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依、日蓮上人は曼荼羅を授与、弘安元年(1278)には僧日源が草庵を営み、日蓮上人を勧請開山、本間重連・重直兄弟を開基として創建したといいます(同様の伝えは妙純寺蓮生寺にも残され、また本間重連は依智に屋鋪三ヶ所所有していたともいいます)日蓮上人配流に際して、無量光寺開祖一遍上人は、当所觀音堂に来て日蓮上人と謁見、以来無量光寺と当寺とで音信を取り合っていたと伝えています。小田原北條家からも寺領を安堵され、江戸期には幕府より寺領7石の御朱印状を慶安2年(1649)に受領していましたが、不受不施派の取り締まりにより廃寺となりかけたところを、茨城県加倉井妙徳寺の住僧日遥が当寺23世となり中興したといいます。

厚木市史史料による妙傳寺の縁起

星梅山星降院妙伝寺(上依知二三九七番地)
新編相模国風土記稿によれば、「俗に星下寺と称す、相伝ふ寺地もと本間六郎左衛門尉重連の宅地なり、文永八年九月十三日、重連の弟三郎左衛門直重宗祖日蓮を竜ノ口より当所に伴ひ来り重連が邸中観音堂に居しむ、此事「注画賛」にも見ゆ、但直重を重連の郎等越智氏と記せり。
其夜日蓮明月に向て法楽をなせしに、堂前の梅樹に大星下りて化益を助く、此事も同書に載たり、九年二月重連日蓮に帰依して当宗に入、よりて日蓮陣中守護の曼荼羅を授与せり、弘安元年九月僧日源、彼星下梅樹の傍に草堂を営み、本間直重の需に応じ、僧日法彫刻ありし宗祖の像を安ず、其後日蓮を請待開山とし、重連、直重兄弟を開基として一寺となし、日源第二世に居れり、按ずるに中依知村梅香寺、金田妙純寺等も星下の旧蹟なりと云伝へ、既に中古争論ありしかど何れも左証なかりしなり。されど星下の旧蹟は何れの地とも定め難けれど当麻村無量光寺開祖一遍、同村遊化の時日蓮配流の由を問、当所観音堂に来て日蓮に謁見す是を因みとして当寺と無量光寺は世々の住持今に音信を通ずといへり、然る時は当寺とするもの拠所あり、享禄四年十月、寺僧等往返の時、諸役免除の沙汰あり、十二月に至りて改て寺内諸役等免許す、天文十八年六月にも又この沙汰あり、遥の後寛文中に至り、不受不施の事に依て殆廃寺とならんとせしを、僧日遥、是を歎き、当寺住職となりて再興す。寺領七石三斗の御朱印は慶安二年賜はれり」(「厚木市史史料」より)

新編相模国風土記稿による妙傳寺の縁起

(上依智村)妙傳寺
法華宗(下總國中山法華経寺末、)星梅山星降院と號す、俗に星下り寺と稱す、相傳ふ寺地もと本間六郎左衛門尉重連の宅地なり、文永八年九月十三日、重連の弟三郎左衛門直重宗祖日蓮を瀧ノ口(鎌倉郡の屬)より當所に伴ひ来り重連が邸中觀音堂に居しむ、此事【注畫賛】にも見ゆ、但直重を重連の郎等越智氏と記せり(注釈を読む)
其夜日蓮明月に向て法楽をなせしに、堂前の梅樹に大星下りて化益を助く、此事も同書に載たり、(注釈を読む)
十月十日、日蓮此所を立て佐州の配所に赴けり、(注釈を読む)
九年二月重連日蓮に歸依して當宗に入、よりて日蓮陣中守護の曼荼羅を授與せり、弘安元年九月僧日源(嚴與院と號す)彼星下梅樹の傍に草堂を營み、本間直重の需に應じ、僧日法彫刻ありし宗祖の像を安ず(長三尺、天拝祖師と號す、今の本尊是なり、)其後日蓮を請待開山とし、重連(注釈を読む)
直重(法名道法、沒年を傳へず、但四日を命日とす、)兄弟を開基として一寺となし、日源(正和四年九月十三日卒)第二世に居れり、按ずるに中依智村梅香寺(今同村蓮生寺と合して一寺となる、)金田村妙純寺等も星下の舊蹟なりと云傳へ、既に中古争論ありしかど何れも左證なかりしなり、武州葛飾郡彦成村に重連の子孫あり、其家の傳へには重連依智に屋鋪三所あり、日蓮を崇信し、三所の屋鋪を皆寺となせりと云、是に據れば三寺共重連の宅地なりしと見えたり、されど星下の舊蹟は何れの地とも定め難けれど當麻村(高座郡の屬)無量光寺開祖一遍、同村遊化の時、日蓮配流の由を聞、當所觀音堂に来て日蓮に謁見す是を因みとして當寺と無量光寺は世々の住持今に音信を通ずといへり(兩寺)然る時は當寺とするもの據所あり、享禄四年十月、寺僧等往返の時、諸役免除の沙汰あり(注釈を読む)
十二月に至り改て寺内諸役等を免許す、(注釈を読む)
天文十八年六月にも又この沙汰あり(注釈を読む)
遥の後寛文中に至り、不受不施の事に依て殆廢寺とならんとせしを、僧日遥(常州隠井妙徳寺の住持、一心院と號す)是を歎き、當寺住職(二十三世)となりて再興す、故に日遥を中興開山とす(元禄九年三月七日卒、)本尊三寶諸尊を安ず、寺領七石三斗の御朱印は慶安二年賜はれり
【寺寶】
△曼荼羅一幅(日蓮筆、木間重連陣中守護の爲に授與すと云もの是なり。)
△香煉大黒天一軀(背に日蓮の花押あり、日親極状を附す曰、日蓮上人香煉御自作無相違者也、永享元酉八月十一日、日親花押、)
△八幡像一軀(本間重連感得の像と云、銅躰長一寸餘、)
△古文書三通(前に記す)
△獨尊堂 丈六の釋迦を安ず(中興日遥建)
△三光堂 三光天子の像を安ず(五世久遠院日親勧請す、)
△七面堂 傍に堂守の寮あり、
△鐘楼。寛文十年鑄造の鐘を掛、
△梅樹。星下の古跡なり(注釈を読む)(新編相模国風土記稿より)

補足:「星下りの梅樹」が三ヶ所ある点について

当寺を含めて三ヶ寺が「星下りの梅樹」の地と伝えている点については、「本間六郎左衛門尉重連の邸宅が3ヶ所あり、3ヶ所とも日蓮宗寺院とした」と、本間家子孫に伝えられていると、新編武蔵風土記稿は記しています。

(葛飾郡彦成村)舊家者善右衛門
村の名主を勤む、本姓は本間にて今は小櫃を氏とす、相傳ふ祖先を本間孫四郎と云、其子孫六郎左衛門鎌倉将軍家に仕へ、相模國依智と云所に屋敷三ヶ所あり、僧日蓮由井濱危難の後、六郎左衛門是を護し、後彼宗門を崇信して三屋敷を捨て寺とす、足立郡島根村安穏寺開山もまた其一族なりと云、六郎左衛門が子孫六郎左衛門、慶長中に始て武州後谷村に土着し、田畑等開發し、寛永四年四月十三日死し、法名養玄と號す、養子勘解由より氏を小櫃に改む、此勘解由より三世善右衛門延寶年中當村に移る、今の善右衛門に至て五代なりと云、先祖の持し物とて槍一筋を蔵せり、(新編武蔵風土記稿より)


妙傳寺所蔵の文化財

  • 釈迦堂・木造釈迦如来立像(市指定有形民俗文化財)
  • 二天門、木造毘沙門天(多聞天)・持国天(市指定重要文化財)

釈迦堂・木造釈迦如来立像

この釈迦堂は、独尊堂とも呼ばれ、構造は十五尺四方(約四・五五メートル)の一間堂で、屋根は入母屋造、四周に裳層を巡らし、天井は非常に高く、堂内に丈六(一丈六尺 約四・八五メートル)の釋迦如来立像が安置されています。
釈迦堂の建立年代は明らかではありませんが、十七世紀後半頃と推定され、妙傳寺の縁起によれば、「常陸国加倉井村(現茨城県水戸市加倉井町)妙徳寺日遥上人が、妙傳寺を再興し、この釈迦如来像を造った」と記述されています。
釈迦如来立像は、巨像を優れた造形力でまとめあげていて、その造立は、山門の二天像建立年の元禄十年(一六九七)をやや遡った頃と推定されます。江戸時代の木造彫刻としては、県下最大級のものです。『和漢三才図会』には、「妙傳寺(中略)丈六ノ釈迦像有リ」と紹介されています。(厚木市教育委員会掲示より)

木造毘沙門天(多聞天)・持国天

この山門は、二天門と呼ばれ、延享三年(一七四六)妙伝寺三十三世日応上人によって建てられたもので、両脇間に金剛垣を構え、毘沙門天(多聞天)・持国天の二天像を安置しています。
構造は総丸柱で、三間一戸八脚門、屋根は入母屋造、柱上の組物は外周を出組とし、内周側は出三斗として内部の鏡天井の桁を受けています。山門にかかる「星梅山」の山号額は、妙伝寺三十三世日応上人の書で、宝暦三年(一七五三)に造られたものです。
両脇間に安置されている毘沙門天(多聞天)・持国天は、仏法守護の四天王(持国天・広目天・増長天・毘沙門天)の内の二天で、山門右奥の釈迦堂に安置されている丈六の釈迦如来立像の脇侍とされていて、元禄十年(一六九七)に造られたものです。(厚木市教育委員会掲示より)

妙傳寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿
  • 「厚木市史史料」