寶塔山蓮生寺。星下りの梅樹、日蓮宗由緒寺院、本間重連公屋敷跡
蓮生寺の概要
日蓮宗寺院の蓮生寺は、寶塔山と号します。蓮生寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあった本間六郎左衛門尉重連の宅地に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依、日蓮上人が赦免となり文永11年(1274)佐渡からの帰途当地に立ち寄り、小湊を拝し両親に回向、宝塔を積み上げ日蓮再誕の地として寶塔山蓮生寺と命名したといいます。江戸期に入り、本間屋敷内にあった三光山梅香寺を合併しています。
山号 | 寶塔山 |
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院号 | - |
寺号 | 蓮生寺 |
本尊 | 三宝祖師像 |
住所 | 厚木市中依知679 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
蓮生寺の縁起
蓮生寺は、文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地にあった本間六郎左衛門尉重連の宅地に逗留、月に向かい法楽したところ、邸宅内の梅樹に明星が降臨する奇瑞が顕れたところから、本間六郎左衛門尉重連が帰依、日蓮上人が赦免となり文永11年(1274)佐渡からの帰途当地に立ち寄り、小湊を拝し両親に回向、宝塔を積み上げ日蓮再誕の地として寶塔山蓮生寺と命名したといいます。江戸期に入り、本間屋敷内にあった三光山梅香寺を合併しています。
境内掲示による蓮生寺の縁起
寶塔山蓮生寺本堂由来
文永八年九月十三日日蓮聖人は中依知役宅本間六郎左門の館に於いて月と法論を交わされ庭前の梅の枝に大星降りる不思議あって以来根本星下り霊場跡として有名。この館に二十八日間滞在の上佐渡流罪となられた。
文永十一年三月二十六日佐渡流罪ご赦免の帰途再び止宿遥か小湊を拝し両親に回向され宝塔を積み上げ日蓮再誕の地なれば寶塔山蓮生寺と命名された。
三光山梅香寺は本間屋敷内にあった古寺だが正長元年享禄三年の間に三度も大火の厄に遭った。寛永三年相模川大洪水で二度も流失以後蓮生寺と合併したのだが檀信徒の熱意や小幡助兵衛の多大な援護で再興、明治初年頃は南側に正門、左西側小幡天一族の墓、祖師堂、大きな本堂、庫裡物置、鐘楼、星下り霊梅跡と、ただし本堂は明治二年座間の心岩寺に売却、残った祖師堂を改築本堂とした。
昭和二十八年本堂の屋根をトタンに葺き替えた。
昭和五十五年本堂を北側の客殿東側へ移設、改築した。
平成十五年爐香具圧梅雨空の下、本堂各所点検調査、七百有余年のときを経てもなお凛としておかしがたい尊影なれどもさすが老朽化の激しさは涙せずには居れず本堂再建の意を固める。
平成十八年十二月本堂新築完成、天下随一を誇る江成金作建築業者との出逢いあり平成十六年木材刻みから完成まで三年の工期をたゆまず匠の新技術を発揮、その素晴らしき出来栄えにはみな和願愛語して合掌せり。
願わくば当山興隆と共に宗門檀信徒並びに参詣各位が日蓮大聖人の当時を偲ばれ益々ご精進あらん事を祈念、当山霊場の略縁起とする。(境内石碑より)
新編相模国風土記稿による蓮生寺の縁起
(中依智村)蓮生寺
法華宗(下總國中山法華經寺末)寶塔山と號す、本尊三寶諸尊を置、日蓮を開山と稱し、蓮生房日永(俗名本間六郎左衛門重連、永仁四年四月十九日死、上依智村妙傳寺、金田村妙純寺建徳二年に傳る所と、法名沒年異同あり)を開基とし僧日源(正和四年九月十三日卒)を中興と稱す(按ずるに、上依智村妙傳寺寺の傳に據ば、當寺も日蓮は勧請開山にて其實は日源を開祖と云べし、)
祖師堂。天拝の祖師と號す(長二尺三寸、蓮生房日永作と云、)古は村内にありし三光山梅香廢寺の本尊なり、彼寺地は往昔本間重連の屋鋪にて文永八年日蓮止宿の時庭上の梅樹に大星下りし舊蹟なりと云へど、信用し難き所あり、後年相模川洪水の時寺地(當寺の接地なり、)流失せしより廢寺となり、其本尊及星下り梅樹の枯木(圍四尺)を切て龕に収め、爰に安置すと云(上依智村妙傳寺金田村妙純寺も星下の舊蹟なりと云傳ふ、詳なる事は妙傳寺の條に出す、)堂中に小幡勘兵衛景憲の肖像を置(長三尺許、法謚信曹院無遣牛、寛文三年二月廿五日死、地頭小幡氏の祖なり、二代より以下代々當寺を菩提所とす、)堂前に鰐口を掛く(天正十九年辛卯四月十三日、寶塔山蓮生寺と彫す、)
三十番神堂
鐘樓。鐘は元和三年鑄る所なり、
石碑一基。五輪塔なり、文永八年日蓮父母菩提の爲建しと云(正嘉二戊午天二月十四日、妙日存儀、文永四丁卯天八月十五日、妙蓮尊尼と刻す、)(新編相模国風土記稿より)
厚木市史史料による蓮生寺の縁起
宝塔山蓮生寺(中依知坂下)
「新編相模国風土記稿」本尊三宝諸尊を置 日蓮を開山と称し、蓮生房日永(俗名本間六郎左衛門重連)を開基とし僧日源を中興と称す。祖師堂、天拝の祖師と号す、古は村内にありし三光山梅香廃寺の本尊なり、彼寺地は往昔本間重連の屋舗にて文永八年日蓮止宿の時庭上の梅樹に大星下りし旧蹟なりと云へど、信用し難き所あり、後年相模川洪水の時寺地流失せしより廃寺となり、其本尊及星下り梅樹の枯木を切てろう中に収め爰に安置すと云。(「厚木市史史料」より)
補足:「星下りの梅樹」が三ヶ所ある点について
当寺を含めて三ヶ寺が「星下りの梅樹」の地と伝えている点については、「本間六郎左衛門尉重連の邸宅が3ヶ所あり、3ヶ所とも日蓮宗寺院とした」と、本間家子孫に伝えられていると、新編武蔵風土記稿は記しています。
(葛飾郡彦成村)舊家者善右衛門
村の名主を勤む、本姓は本間にて今は小櫃を氏とす、相傳ふ祖先を本間孫四郎と云、其子孫六郎左衛門鎌倉将軍家に仕へ、相模國依智と云所に屋敷三ヶ所あり、僧日蓮由井濱危難の後、六郎左衛門是を護し、後彼宗門を崇信して三屋敷を捨て寺とす、足立郡島根村安穏寺開山もまた其一族なりと云、六郎左衛門が子孫六郎左衛門、慶長中に始て武州後谷村に土着し、田畑等開發し、寛永四年四月十三日死し、法名養玄と號す、養子勘解由より氏を小櫃に改む、此勘解由より三世善右衛門延寶年中當村に移る、今の善右衛門に至て五代なりと云、先祖の持し物とて槍一筋を蔵せり、(新編武蔵風土記稿より)
蓮生寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿
- 「厚木市史史料」