恵雲山常栄寺。桟敷の尼、ぼたもち寺
常栄寺の概要
日蓮宗寺院の常栄寺は、恵雲山と号します。常栄寺は、比企谷妙本寺・池上本門寺両山十四世自証院日詔上人が常栄寺と号して慶長11年(1606)創建、宝篋堂檀林(南谷檀林)を開設したといいます。当地山上は、かつて源頼朝が遠望のために桟敷を作った地で、日蓮聖人が龍の口法難に遭われた際、当地に住んでいた桟敷の尼(妙常日栄)がぼたもちを日蓮聖人に差しあげたことから”ぼたもち寺”と称されています。江戸期には、紀州徳川家の家臣水野淡路守重良の息女が入信、日祐法尼となり、当寺を開基したといいます。
山号 | 恵雲山 |
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院号 | - |
寺号 | 常栄寺 |
本尊 | - |
住所 | 鎌倉市大町1-12-11 |
宗派 | 日蓮宗 |
縁日 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
常栄寺の縁起
常栄寺は、比企谷妙本寺・池上本門寺両山十四世自証院日詔上人が常栄寺と号して慶長11年(1606)創建、宝篋堂檀林(南谷檀林)を開設したといいます。当地山上は、かつて源頼朝が遠望のために桟敷を作った地で、日蓮聖人が龍の口法難に遭われた際、当地に住んでいた桟敷の尼(妙常日栄)がぼたもちを日蓮聖人に差しあげたことから”ぼたもち寺”と称されています。江戸期には、紀州徳川家の家臣水野淡路守重良の息女が入信、日祐法尼となり、当寺を開基したといいます。
鎌倉市掲示による常栄寺の縁起
幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。
日蓮は処刑を奇跡によってまぬがれますが、この法難のあった九月十二日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。
こぢんまりとした境内にはあふれるように草花が植えられています。((鎌倉市掲示より)
常栄寺栞による常栄寺の縁起
(一)ぼたもち寺のいわれ
恵雲山常楽寺は俗に『ぼたもち寺』という。日蓮聖人(一二二二~一二八二)は当時の仏教の誤りを正し、国の乱れを救わんとして、『立正安国』を主張してやまなかったので幾多の迫害をうけた。
文永八年(一二七一)九月十二日龍の口法難に際し、この地に住んでいた桟敷の尼が、日蓮聖人に胡麻のぼたもちを捧げたことは有名な美談物語である。
仏天の加護奇蹟により聖人は龍の口の法難の座をまぬがれたので後には『頸つぎのぼたもち』と言われ、七百年後の今日においてもなお毎年九月十二日の御法難会に際し、当寺より住持、信徒威儀を正して唱題のうちに片瀬瀧口寺に胡麻の餅を供えるのを古来よりの例としている。『ぼたもち寺』といわれるのはこのためである。
(二)桟敷の尼
これより前、源頼朝は由比ヶ浜に於ける千羽鶴の放鳥を遠望のためこの地の山上に桟敷(展望台)を作った。後にぼたもち供養の老女がこの麓に住んでいたので桟敷の尼(有髪の尼)といわれた。尼は将軍宗尊親王の近臣、印東次郎左衛門祐信の妻であり、夫婦とも日蓮聖人に帰依入道して夫は道妙入道、妻は理縁尼といい、比企能本の夫人理芳尼はその妹である。日蓮聖人は桟敷女房宛の御手紙に
(文面中略)
と述べ、尼夫妻の法華経信仰の厚かったことをほめたたえている。尼は文永十一年十一月十二日、八十八才の高齢にて示寂。法名を妙常日栄といい、常栄寺の名称はこれに因る。夫妻の墓は境内に存し、桟敷大明神として当寺に勧請してある。因に、尼がぼたもち供養に際し使用された木鉢と所持されていたという鉄奨壷(おはぐろつば)は当寺に、又お盆代りに使われたといわれている鍋蓋は片瀬瀧口寺に霊宝として現在も格護されている。
常栄寺・宝篋堂檀林
慶長十一年(一六〇六)比企谷・池上両山十四世自証院日詔上人はこの桟敷台に常栄寺を創立して宝篋堂檀林を開設した。この檀林(僧侶の学校)は元禄二年(一六八九)池上に移され、南谷檀林がそれである。慶雲院日祐法尼は紀州徳川家の家臣水野淡路守重良の息女なりしが、妙令にて出家得度し、この霊場の史蹟を追慕して、講堂、学寮等を再建して法器の養成に尽力された。(鎌倉市史)(常栄寺栞より)
新編相模国風土記稿による常栄寺の縁起
(大町村)常榮寺
小名峰岸にあり惠雲山と號す(本寺前に同じ<妙本寺末>)寺傳に據るに古昔賴朝由比ヶ濱遠望の爲當所山上に桟敷を構へし舊蹟なりとぞ、其後兵衛左衛門と云ふ者の妻此地に居住し即桟敷尼と稱せしとなり(法名妙常日榮、文永十一年十一月十二日、八十八歳死す、)故に當所舊は桟敷屋鋪と唱へしなり、天正の頃大窪與太郎保廣本山妙本寺に此地を寄附せし事同寺蔵文書に見えたり
(同寺の條に引用す、併せ見るべし、但し彼文書には桟屋敷とあり、全く桟敷屋鋪と有べきを、落字せしものか、又中古の訛傳なるか、今詳にし難し、)
斯て慶長十一年本山十四世(或は十三世と云ふ)日詔(自證院と號す、元和三年二月十九日寂す、池上本門寺にては、自性院に作る、四月寂すと傳ふ、)當寺を起立し、寶篋堂檀林とす、寺號は桟敷尼の法名を執れり、元禄二円四月本山廿四世(或は廿一世と云ふ)日玄(妙悟院と號す、寶永元年七月三日寂す、)此檀林を池上本門寺域に遷せり
(今本門寺院家照榮院本堂に、朗慶山立善講寺の額を掲げ、南谷檀林と唱ふる即是なり)
是より後當寺を檀林舊地と稱す、其後日祐(慶雲院と號す元禄四年七月十九日寂す、)が時更に諸堂再建あり、故に祐を中興と唱ふ、本尊三寶祖師及び鬼子母神の像を安ず、講堂に桟敷尼の像を置き桟敷大明神と稱す、(新編相模国風土記稿より)
常栄寺の周辺図
参考資料
- 新編相模国風土記稿