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大吉寺|世田谷区世田谷にある浄土宗寺院、伊勢貞丈墓

大吉寺の概要

浄土宗寺院の大吉寺は、護国山天照院と号し、創建年代は不詳ですが、真言宗寺院として創建、世田谷吉良氏の祈願所となっていました。後目黒祐天寺の祐天上人、その弟子祐海上人の尽力により浄土宗寺院として再興しました。境内には、有職故実の研究者伊勢貞丈の墓があります。

大吉寺
大吉寺の概要
山号 護国山
院号 天照院
寺号 大吉寺
住所 世田谷区世田谷4-7-9
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大吉寺の縁起

大吉寺の創建年代は不詳ですが、真言宗寺院として創建、世田谷吉良氏の祈願所となっていました。小田原北条氏と共に吉良氏も滅亡、目黒祐天寺の祐天上人、その弟子祐海上人の尽力により浄土宗寺院として再興しました。

新編武蔵風土記稿による大吉寺の縁起

(世田谷村)大吉寺
除地六畝十歩、字下町にあり、護国山天照院と云、浄土宗にて多摩郡郷地村泉澤寺の末寺なり。本堂七間に五間、本尊は釈迦如来坐像長六尺。開山は縁誉上人超察和尚寂年詳ならず。されど世代今二十六世に及ぶと云。年歴推て知べし。
地蔵堂蹟。境内にあり。いつの頃にや焼失して其跡のみのこれり。(新編武蔵風土記稿より)

せたがや社寺と史跡による大吉寺の縁起

浄土宗に属し、護国山天照院と号し、川崎市上小田中の泉澤寺の末寺である。
本堂は7間に5間に改築され、本尊は阿弥陀如来の坐像で高さ6尺、はじめ世田谷吉良氏の祈願所として真言宗に属していたが、吉良家衰亡とともに、見る影もなく衰えてきた。中興開山縁誉上人超察が、品川の御殿山から旭如来を結縁のため、この地に移したものという。目黒祐天寺の祐天上人、その弟子祐海上人がいたく大吉寺の荒廃を憂え、常に寺運の再興を念とし、その温情により寺運ようやく隆盛に赴いた。その後数度の火災で、多くの寺宝を失ってしまった。寺内にある金仏の阿弥陀如来は池田備前守が発願し、当時の善男善女の喜捨によるもので、その蓮台に寄付者の名前が、数多く彫刻されている。江戸時代には、除地6畝10歩を所有し、また境内に地蔵堂跡がある。
この寺の基地にある江戸時代武家故実学者伊勢貞丈はあまり知られていないが、昭和4年5月に都旧跡に指定されている。この基は、もとからこの寺にあったものではなく、大正11年に港区芝西久保の大養寺から、世田谷に移されたものであり、貞丈の妻や子孫など一族の墓碑も同様である。
貞丈は享保2年(1717)生まれで、天明4年(1784)5月28日68才で没し、墓碑の6月5日行年70とあるのは公儀に届出たとおりを刻したものである。生まれたのも死んだのも麻布鷺森で、享保11年(1726)8月、10才で家を嗣いたが、表向きは12才として届け出ている。
伊勢家は、有職故実で有名であったが、貞丈に至って伊勢家の学は集大成せられ、その著300部に及ぶといわれ、江戸時代における有職故実の最高峰を示すものである。
貞丈には男子がなかったので、竹中氏から養子貞敦を迎えたが、病気のため家を嗣がず、その子貞春には10数部の著述がある。貞春の孫貞友は千賀春樹らとともに「兵丈雑記」16巻32冊を浄書校正して、天保14年(1843)に出版し、家学を世にひろめた。(せたがや社寺と史跡より)


大吉寺所蔵の文化財

  • 伊勢貞丈墓

伊勢貞丈墓

江戸時代中期の有職故実研究者。父貞益は幕府直臣で千石を領していたが、封を継いだ兄貞陣が夭死したため封地を返上した。幕府はこの中から三百石を貞丈に与え家名を継がせた。
貞丈は若い頃から有職故実を研究し、特に中世以降の武家を中心とした制度、礼式、調度、器具、服飾にくわしく、人びとはかれの尊書を珍重したという。天明四念(1784)6月5日、年70て歿した。
著書には「武器考証」「武家法度考」「十七条考」「故実三家異考」「鎧具足弁」「鎧直垂色目」「貞丈雑記」「甲胃名考」「刀剣問答」「諸鞍日記考証」「烏帽子考」「位袍」「武蔵鎧」その他多い。(東京都教育委員会掲示より)

大吉寺の周辺図


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