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東谷山福泉寺。高座郡寒川町にある曹洞宗寺院

福泉寺の概要

曹洞宗寺院の福泉寺は、東谷山と号します。福泉寺は、天正14年(1586)に創建、三田清源院第五世英顔麟哲(慶長2年1597年寂)が開山したといいます。開山の英顔麟哲は、当寺のほか宮山興全寺・東富岡龍珊寺、長津田大林寺大曾根大乗寺小山保寿院を開山しています。

福泉寺
福泉寺の概要
山号 東谷山
院号 -
寺号 福泉寺
住所 高座郡寒川町小谷3-2-16
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



福泉寺の縁起

福泉寺は、天正14年(1586)に創建、三田清源院第五世英顔麟哲(慶長2年1597年寂)が開山したといいます。開山の英顔麟哲は、当寺のほか宮山興全寺・東富岡龍珊寺、長津田大林寺大曾根大乗寺小山保寿院を開山しています。

新編相模国風土記稿による福泉寺の縁起

(小谷村)
福泉寺
東谷山と號す、曹洞宗愛甲郡三田村清源院末本尊地蔵、開山麟哲慶長二年七月二十二日卒、
鐘。安永七年の銘あり、
山王社(新編相模国風土記稿より)

「寒川町史10別編寺院」による福泉寺の縁起

福泉寺
曹洞宗。山号は東谷山。愛甲郡三田村(厚木市)の曹洞宗天巽派清源院の末寺にあたる。
『新編相模国風土記稿』によれば、慶長二年(一五九七)七月二十二日に卒した麟哲を開山としている。英顔麟哲は愛甲郡三田の清源院の第五代住持であったが、寺伝では天正十四年(一五八六)に当寺を開創したという。寺蔵史料によれば、延享三年(一七四六)一〇世の恵目代に開山一五〇年忌を行っているので、『新編相模園風土記稿』の麟哲没年記事と整合性がある。なお、英顔麟哲は、当寺の他、興全寺(宮山村)、龍珊寺(大住郡東富岡村=伊勢原市)、大林寺(都筑郡長津田村=横浜市緑区)、大乗寺(橘樹郡大曾根村=横浜市港北区)、保寿院(都筑郡小山村=横浜市緑区)の開山となっている(清源院所蔵万治三年(一六六〇)「天巽派門末帳」『厚木市史』近世資料編社寺付録所収)。
寛永十年(一六三三)『曹洞宗通玄派本末記』に「寺中計、相州東郡一宮村福泉寺」とある他、延亭四年(一七四七)の『総寧寺配下本末帳』には「天巽派相模国愛甲郡三田村清源院末」として「除地同国同郡福泉寺」と見えるので、近世初頭以降、通玄寂霊の法嗣了庵慧明派の中の下総総寧寺(千葉県市川市)の系列である天巽派下にあった。つまり総寧寺の中本寺であった清源院末として福泉寺が位置づけられていた。このことは、福泉寺の住持就任にあたって、本末規式の遵守・堂宇山林の管理・門役の勤仕などの誓約を本寺清源院へ宛てて差出している文書が端的に示している。
本尊は『新編相模国風土記稿』では「地蔵」とある。現在当寺には二組の地蔵菩薩像が安置される。一軀は坐像、もう一軀は判跏像である。本尊は運慶作との伝えのある坐像だが、実は室町後期の作で、正徳三年(一七一三)七世密端の代に再興(修補)され、さらに天保七年(一八三六)一六世梅橋代に釈迦如来像・開山英願麟哲像・達磨大師・大権修理菩薩像・地蔵像(万霊塔安置)の諸像ともども再奥(修補)された。なお、これら諸像の他、道元禅師坐像・瑩山紹瑾(常済大師)坐像など、いずれも江戸時代の作ながら曹洞宗寺院にふさわしい尊像が遺されている。
当寺建物に関する史料は少ないが、元禄十六年(一七〇三)十一月の「元禄大地震」によって、大殿・門が破損し、時の住持七世の密端和尚が檀信徒を集め再建を熱心に説き、宝永二年(一七〇五)飯山村(厚木市)の大工西海重本に命じて堂宇再建のなされたことが棟束(『町史』銘文集)に見える。その後、大機の代に至り寺門が建立される(寺蔵史料)一方、安政三年(一八五六)八月の大風雨によって本堂・庫裡なども破損する被害にあっている。明治末年の「社寺明細帳」によると、本堂は間口六間、奥行五間半の規模であった。また、『新編相模国風土記稿』には安永七年(一七七八)銘の鐘があったと記すが、今はない。
境内地は安政二年「小谷村家数人別書上帳」に「柳生播磨守知行分 相州愛甲郡三田村禅宗清源院末禅宗福泉寺 境内除地」とあり、境内が除地となっていた。明治末ごろの「社寺明細帳」によると境内地の面積は九九九坪、境内外地は小谷村字西原に耕地二町八反六畝余・字法蓮寺に耕地五反七畝余・字西原に山林八反余があった。
当寺什物のひとつに「大般若経」四九六巻がある。大般若経は本来六〇〇巻であり、完全ではないものの延宝五年(一六七七)の黄檗版(鉄眼版)である。この経は転読に用いられるものだが、各巻の奥書に施入者の名があり、町域の村むらをはじめ、現在の綾瀬・藤沢・大和・厚木・茅ヶ崎・愛川の町村から三九〇余名による奉納であったことが知れる。当寺檀信徒とその広がりを窺える史料である。「社寺明細帳」には、明治末ごろで檀徒数二七二人とある。
境内墓域に土屋権十郎と同重貞の墓塔二基がある。一基には「寛永十二乙亥年十月廿五日土屋権十郎」、
もう一基には「延宝四丙辰正月十七日 相応院殿宗春居士 正月十七日土屋権十重貞」との銘文が刻まれている(『町史』)。この土屋氏は、『寛政重修諸家譜』所収の、平氏良文流、土屋惣兵衛重治の三男重成が分家し、重成-重正-重吉と繋がる系譜の家柄であろうか。『寛政重修諸家譜』によれば土屋権十郎は重正という人物に該当するが、重貞について同書には記載はない。しかし、重正の子重吉(半三郎・権十郎)は大猷院(秀忠)に拝謁の後、御小姓組番士、延宝三年(一六七五)三崎の奉行と昇るが、延宝四年正月十一日「失心して自殺、嗣子なくして家絶ゆ」と見える。墓碑にある「延宝四年正月十七日」は重吉自殺後初七日にあたるので、あるいは重貞は重吉かとの想定もできようが、確証はなく、また土屋氏と当寺のかかわりも判然とはしない。
なお、福泉寺には寺子屋が置かれ、慶応年聞は住職代理桑山良禅が手習師匠を務めていた。明治六年(一八七三)に学制が発布されると、福泉寺の堂宇を借りて雍和学舎が設立され、明治九年までここで小学校教育が行われた。その学区域は小谷、大蔵、小動村であった(寒川小学校蔵「沿革誌」)。(「寒川町史10別編寺院」より)


いいお墓

福泉寺の周辺図