奥戸天祖神社|伊勢皇大神・香取・鹿島を勧請して三社明神、旧奥戸村鎮守
奥戸天祖神社の概要
奥戸天祖神社は、葛飾区奥戸にある天祖神社です。奥戸天祖神社は、当地が葛西御厨であった頃に、伊勢皇大神を勧請し、また下総の香取・鹿島のニ神を勧請して三社明神と称し、奥戸村の鎮守としたといいます。大しめ縄神事と奥戸連句碑が葛飾区指定文化財になっています。
社号 | 天祖神社 |
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祭神 | 天照皇大神、武甕槌命、経津主命 |
相殿 | - |
境内社 | 浅間神社、諏訪神社、稲荷神社、出羽三山神社、第六天社、古録神社、御獄神社 |
例祭日 | 10月10日 |
住所 | 葛飾区奥戸2-35-16 |
備考 | 旧奥戸村鎮守 |
奥戸天祖神社の由緒
奥戸天祖神社は、当地が葛西御厨であった頃に、伊勢皇大神を勧請し、また下総の香取・鹿島のニ神を勧請して三社明神と称し、奥戸村の鎮守としたといいます。
当社はこの地が葛西御厨であった頃、伊勢皇大神を勧請し、また下総の香取・鹿島のニ神を勧請して、三社明神と称し、村の鎮守としたものと思われる。「新編武蔵風土記稿」奥戸村の条に「三社明神社 神明・香取・鹿島ヲ祭レリ。村ノ鎮守ニシテ、西光寺持。末社湯殿社・月山・羽黒山合社、稲荷、風雨神」といい、「東京府志料」奥戸村の条にも「天祖神社 天祖・香取・鹿島ヲ祭レリ。モト神明社ト云。一新後、社号改マル。村ノ鎮守ナリ。末社三宇、社地300坪」とある。江戸時代には、寛永18年(1641)以来、寛文・正徳・享保・天明・文政・天保・安政の8回にわたって再建または修覆が行われ、大正11年には拝殿が修築され、現在の社殿は昭和49年12月の造営である。当社の年中行事として、古くから長さ4間2分の<ごぼうじめ>二本を作り、一本は社前の御神木に納め、一本は氏子の若者が担いで村中を個別に廻って祈祷する慣習があったが、現在は短い<ごぼうじめ>一本を神社に奉納するのみとなった。(葛飾区教育委員会 葛飾区神社調査報告より)
地名奥戸の由来
「奥戸」は「奥津」が転訛した地名です。東京低地には「戸」のつく地名が多くみられますが。「戸」は本来「津」を用いたもので、主として「港津」をあらわし、対岸へ渡ることにできるの渡河地点でもあります。この地は古代から河川との関わりが深く、川を利用した舟運が発達していました。「戸」地名はそのような状況を物語っているのです。奥戸地域は、地名が室町時代の文書にみられることや、この地から古墳時代から奈良・平安時代の集落が発掘されていることから、古代から開発されていた土地であることがわかります。江戸期から昭和5年まで奥戸村でしたが、その後、奥戸町となり、昭和7年葛飾区の誕生とともに、奥戸本町となりました。昭和41・43・47年の住居表示の実施により現在の奥戸1~5・7~8丁目、東新小岩6丁目となりました。(葛飾区HPより)
奥戸天祖神社所蔵の文化財
- 奥戸天祖神社棟札 1枚(葛飾区指定文化財)
- 大しめ縄神事(葛飾区登録文化財)
- 奥戸連句碑(葛飾区指定文化財)
大しめ縄神事
奥戸天祖神社で毎年10月に行われる祭礼「大しめ縄神事」では、稲藁を用いて、約6メートルにもおよぶ大しめ縄を作り、「アクマバライ」と称して旧村内を担いでまわります。以前は「雄じめ・雌じめ」と呼ばれる2本の縄を作り、急村内をまわった後、神社境内にあった榎に掛けられていました。その後、大しめ縄は1本となり、正面鳥居に掛けられ、さらに平成9年には氏子によって新たに石柱が立てられ、ここに掛けられるようになりました。大しめ縄には、氏子の各家から持ち寄った稲藁を用いていましたが、今日では、区内で稲作がほとんど行われなくなったため、材料の稲藁は千葉県から入手しています。~(葛飾区教育委員会掲示より)
奥戸連句碑
本体の高さ159センチ、幅50センチ、奥行11センチ。台石の高さ22センチ、幅66センチ、奥行43センチ。
題字は「趣長辞短」で、その下を4段に区切り、奥戸を中心とした人々の俳句を各宗匠撰別に列挙してあります。
右下の欄外に「明治二十年亥一月吉辰」、左下の欄外に「関 清太郎謹書・当村石工 遠田清吉彫刻」とあり、この地域に俳句が盛んであったことをしのぶことができます(葛飾区教育委員会掲示より)
奥戸天祖神社の周辺図