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光増寺|葛飾区東金町にある浄土宗寺院

光増寺の概要

浄土宗寺院の光増寺は摂取山蓮池院と号します。光増寺は、貞応元年(1222)法海が結んだ草庵を起源とし、元仁元年(1224)5月、親鸞聖人が立ち寄った際に法海が帰依し、浄土真宗光増寺となったと伝えられます。戦国時代の国府台合戦により堂宇を消失、天正15年(1587)7月、江戸増上寺の僧円蓮社常誉が浄土宗として中興しました。当地は旧水戸街道沿いにあたり、水戸徳川家の立ち寄り所となっていたことから、徳川家の紋所が入っています。

光増寺
光増寺の概要
山号 摂取山
院号 蓮池院
寺号 光増寺
住所 葛飾区東金町6-20-17
本尊 阿弥陀如来三尊立像
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



光増寺の縁起

光増寺は、貞応元年(1222)法海が結んだ草庵を起源とし、元仁元年(1224)5月、親鸞聖人が立ち寄った際に法海が帰依し、浄土真宗光増寺となったと伝えられます。戦国時代の国府台合戦により堂宇を消失、天正15年(1587)7月、江戸増上寺の僧円蓮社常誉が浄土宗として中興しました。

新編武蔵風土記稿による光増寺の縁起

光増寺
浄土宗、新宿町西念寺末、摂取山と号す。当時は古浄土真宗たりしと云傳ふ。今も本尊には親鸞の真筆阿弥陀の画像を掛け、前に三尊の弥陀、安阿弥の作を置。開山常誉、文禄4年2月朔日化と云。此僧より今の宗に改めしなるべし。
弁天社、稲荷社、牛頭天王社、不動堂、観音堂。
不動堂は近き頃焼失し、観音堂は今破れて再建に及ばず、二像とも仮に客殿に安せり。(新編武蔵風土記稿より)

葛飾区寺院調査報告による光増寺の縁起

寺伝によれば当寺は、貞応元年(1222)法海が草庵を結んだのを創始とする。元仁元年(1224)5月、親鸞聖人が常陸の稲田(茨城県笠間市)から西渋江の葛西清重の館(後の四つ木西光寺)へ赴く途中、法海の草庵に一泊し、法海を弟子とし随信房と名づけた。その後、貞永元年(1232)8月、聖人は再び法海の草庵に泊し、草庵を光増寺と称し、別れるに際して、自筆の阿弥陀仏像と三名号を与えた。以来、光増寺は三百余年の間、浄土真宗の法灯を伝えたが、天文7年(1538)および永禄7年(1564)の国府台の合戦に焼失して荒廃した。その後、天正15年(1587)7月、江戸増上寺の僧円蓮社常誉が浄土宗として再興したが、文禄元年(1592)正月また兵火に炎上し、慶長年間在誉が再興し、さらに天保3年(1822)と明治16年とに焼亡して、多くの寺宝と記録を失い、明治43年8月の再建を経て、昭和49年、現在の堂舎に改築された。(以下引用省略)
当寺は浄土宗に転宗した後も、親鸞聖人忌日の取越法要が行われ、江戸時代には、江戸川の参詣も多かったこと、および文政頃の寺の状況は「十万庵遊歴雑記」の記事に窺うことができる。(以下引用省略)
なお境内入口に、江戸時代葛飾の生んだ俳人鈴木松什の墓(区文化財指定)がある。松什は寛政10年(1795)柴又村に生まれ、通称を安五郎、俳名を無有庵といった。瓦の製造を業とし、若くして俳諧の道に入り、江戸時代の俳人寥松の門下となり、書道にも達し、地方の宗匠として中央俳壇にも知られ、著作に「芭蕉翁発句類題集」などがある。嘉永6年(1853)4月18日病没、年56歳。法名を無有庵俊誉松什禅士という。(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)


光増寺所蔵の文化財

  • 舟形地蔵道標
  • 鈴木松汁墓(葛飾区指定文化財)

光増寺の周辺図


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