王子神社|北区王子本町の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

王子神社|王子権現、准勅祭社、東京十社、かつらの神様関神社

王子神社の概要

王子神社は、北区王子本町にある神社です。王子神社は、康平年間(1058-65)以前の平安時代に勧請され、当地名由来の神社です。王子神社は、源義家が奥州征伐(前9年の役)の際には当社で祈願をした他、豊島氏、後北条氏らからも崇敬を受け、徳川家康からは天正19年(1591)に社領200石の御朱印状を拝領、明治期には准勅際社の指定を受け、戦後には東京十社の一社に数えられています。境内には関神社と毛塚があり、蝉丸が髪の祖神として祀られています(かつらの神様です)。

王子神社
王子神社の概要
社号 王子神社
祭神 伊邪那美命、伊邪那岐命、天照大御神
相殿 速玉之男命、事解之男命
境内社 関神社
境外末社 富士神社八雲神社若宮八幡神社日枝神社御嶽神社
住所 北区王子本町1-1-12
備考 豊島庄鎮守、准勅祭社、東京十社


※御朱印はいけみずさんより寄贈


王子神社の由緒

王子神社は、康平年間(1058-65)以前の平安時代に勧請され、当地名由来の神社です。王子神社は、源義家が奥州征伐(前9年の役)の際には当社で祈願をした他、豊島氏、後北条氏らからも崇敬を受け、徳川家康からは天正19年(1591)に社領200石の御朱印状を拝領、明治期には准勅際社の指定を受け、戦後には東京十社の一社に数えられています。

北区文化財案内による王子神社の由緒

王子権現は、縁起によれば紀州熊野三所を勧請したもので、祭神は速玉之男命、伊弉册尊、事解之男命である。王子村は古くは岸村といったが、同社が勧請されて王子村と改めたという。勧請の年代は不詳であるが、康平年中(1058-65)源義家が奥州征伐(前9年の役)の時、ここで金輪仏頂の法を修せしめ、凱旋の日、甲冑を奉納したと縁起にあるので、それ以前の勧請であると推定される。文保(1317-19)、元弘年中(1331-34)豊島氏が修造し、その後小田原北条氏が社領を寄進していることが「小田原衆所領役帳」に記されている。天正19年(1591)、社領200石の朱印が付され、寛永11年(1634)徳川家光は酒井雅楽頭に社殿を造営するよう命じ、林羅山にこの権現を新たに書くように命じた。天明2年(1782)、文政3年(1820)幕府によって修理が加えられている。祭礼は花鎮祭といい、3月10日に行われていたが、廃されてしまった。また、7月13日の祭礼には田楽舞という式が行われており、正月13日には十八講が行われ、年中大小の祭礼は七十余りになる。
以上は、王子神社について「新編武蔵風土記稿」が記すところを現代文に要約したものです。(中略)
現在、王子神社の祭神は、伊弉諾尊、伊弉册尊、天照大神で相殿に事解男命、速玉之男命を祀っており、境内には大イチョウ、関神社があります。(北区文化財案内より)

新編武蔵風土記稿による王子神社の由緒

(王子村)王子権現社
渡殿幣殿拝殿あり、縁起云、紀伊國牟婁郡熊野三所を勧請する所にして、祭神は速玉之男、伊弉冊尊、事解之男是なり、其年歴は詳にせされと康平年中八幡太郎義家奥州征伐の時、當山にて金輪佛頂の法を修せしめ、凱旋の日社頭に甲冑奉納云々とあれは、其より以前の勧請なること知へし、文保元弘年豊嶋氏修造の事あり、其後小田原北條家にても尊信淺からず、上平川内三貫六百文下平川村内二十二貫八十文牛込内三貫百八十文の地を社領として寄附せしこと、【小田原役帳】に見えたり、又天正三年同十一年同十六年等寺中不入の禁制を與へり、同十九年北條氏の寄附に任せて神領二百石の御朱印を賜はり、又寛永十一年社領再造すへき由酒井雅楽頭に命せられ、松平加賀右衛門正次・中根七左衛門友次の兩人奉行して造營し、同き年の冬落成せしかは遷宮料として金五十兩をたまへり、同年十月當社縁起新撰の頃林道春に命せられ、八ヶ年を歴て同き十八年脱稿す、極彩色の繪巻物にて筆者は鈴木権兵衛某、畫工は狩野主馬尚信なり、其後延寶三年修理料として金五百兩槫木二萬本を賜ひ、元文二年三月熊野花鎮祭の事に擬て飛鳥山を當社へ御寄附あり、天明二年文政三年の兩度修理を加へらる、其度々の棟札今に存せり、祭禮は花鎮祭とて三月十日に行ひしか何の頃よりか廢せり、又七月十三日の祭禮には田楽躍と云式あり、別當總供僧承事、禰宜神子及ひ兒四人、田楽法師八人、武者三人其式を勤む、此時着する装束及武具は寛永十一年、元禄十六年の兩度に賜りしと云、又正月十三日十八講式あり、總て年中大小の祭禮七十餘度執行ふ。
神楽殿。
護摩堂。本地佛薬師阿彌陀観音の三軀及び不動を安し、又弘法大師の像を置。
鐘楼。寛永十五年鑄造の鐘をかく文左の如し。(銘文省略)
仁王門。若一王子の額をかく、寛永年中仁和寺宮覺深親王の筆也。
供所。智明庵と號す。
神寶
若一王子縁起三巻。寛永十一年鉤命に依て林道春撰する處なり、筆者は鈴木権兵衛、畫工は狩野主馬の極彩色なり、其後久く御文庫に置れしを、承應三年十二月廿五日御納ありしと云、巻末の文左の如し。武州豊嶋郡若一王子社者、所勧請熊野権現也、寛永年中、征夷大将軍左大臣從一位源大君治世理國之暇、敬神努民之餘、造替當社、新賜縁起、從四位下侍従兼加賀守紀朝臣正盛謹奉鉤命、乃令愚拙撰其詞、於是筆者、揮行草之勢、畫工盡丹青之美、正盛偶有不逞、而斎藤攝津守三友傳棟、而後其功已成、装爲三軸、以納社内、誠是神寶之最也、須遺芳於萬世、而輝神威鎮邦國者、不坐茲乎。寛永十八年七月十七日 民部卿法印道春敬書。
熊野三神傳記一枚。元文三年有徳院殿の内命に依成嶋道筑記する處なり料紙は大高檀紙一枚なり是禁裏より進せられし御神と云傳ふ。
腹巻一箇。康平年中源義家東征の時寄納ありしと云、眞偽は知らず、古制のものなり、圖前に載す。
鎌倉権五郎景政鏃一枚。寄附の由来詳ならず圖右に載す。
太刀二振。一は長四尺二寸八分、中心二尺五寸、銘に國次とあれと次の字定かならず、一は長四尺三寸中心二尺二寸餘、内一尺許は後に打添しものなり是は銘なし、共に鎌倉北條家より寄附すと云。
古刀一腰。近き年飛鳥山より掘得たりと云、古代の制なり若くは明器に埋みしものにやといへり、圖上野如し。
大般若経一巻。活字版にて大般若第三百四十九巻目なり、奥書に奉施入武州豊嶋熊野権現御寶□、文保二年戊午初秋大施主右衛門尉平行泰敬白と記す。
王子宮本地三尊三幅。紺紙に金泥の梵字を以て佛像を圖せしものなり、藤堂和泉守高睦納る處と云、表装の裏に武州豊島郡若一王子権現之本地者彌陀薬師千手之尊影也、別當金輪寺宥相法印所望新圖爲、故使家士赤尾加兵衛清繼随舊圖以金泥梵文荘厳之附于寶庫、而永家門榮全者也、元禄十五郡立年姑洗上弦從四位下高睦誌とあり。
銅燈籠一。武州豊嶋郡若一王子宮厳燈籠寄進王子、東光院第十代住僧権大僧都法印朝宗慶長九年甲辰正月吉日と銘す、圖右の如し。
北條家文書三通(文省略)
東照宮。寛永十一年社領御造營の時勧請し奉と云、御束帶の御像にて日光山大楽院の御畫像を模し奉れりと云傳ふ。
末社
天照太神。
飛鳥明神。古は飛鳥山にありしを寛永十年ここに移せり、祭神は事解男命なり。
聖宮。
天神。
三十番神。
山王。
關明神。
荒神。
十二所氷川浅間合社。
八幡蔵王白山合社。
康家清光合社。豊島康家清光の靈を祀れり、康家は豊島三郎と號し、源義家に仕へし太郎近義の子なり、清光は権頭と稱し治承の頃の人なり。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による関神社の由緒

この神社の由緒によると、関蝉丸神社の御神徳を敬仰する人たちが「かもじ(髪を結う時自分の髪に添え加える毛)業者」を中心として、江戸時代に王子神社境内に奉斎したことを創始としています。「毛塚」は釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られた時、貧女が自らの髪の毛を切り、油にかえて献じた光が、大突風にも消えることなく煌煌と輝いたという言い伝えから、毛髪を扱う業者によって毛髪報恩と供養のために昭和36年5月24日、建立されました。


王子神社所蔵の文化財

  • 王子神社境内の大銀杏(東京都指定文化財)
  • 王子神社の田楽舞(北区無形文化財)

王子神社境内の大銀杏(昭和14年3月指定)

荒川に落ちる支流、音無川の左岸高台に王子権現(王子神社)がある。
かなり遠方からでもこのイチョウは見え、付近と異なる風致地区を形成している。
大正13年の実測によると、目通り幹囲は6.36メートル、高さは19.69メートルであったという。枝はあまり多くないが、うっそうとしており、樹相はきわめて立派である。
当社は豊島氏の旧跡であり、このイチョウも、その当時植えられたものであると伝えられている。

王子田楽(昭和62年4月1日指定)

王子田楽は王子権現社(現在の王子神社)に伝承された民俗芸能で、始まりは、中世の頃といわれています。江戸時代には、旧暦の7月13日に境内の舞台(現在は滅失)で、花笠を被り、衣装を着けた躍り手が十二番の演目を奉納したことが、当時の地誌などに記されています。戦争で長らく中断していた王子田楽でしたが、地域の人々の努力により昭和58年に復興を果たしました。現在は毎年8月、王子神社の例大祭最終日の午後、境内の仮設舞台で、地域の子供たちが躍り手となって王子田楽が執り行われています。


王子神社の周辺図