法呑山正泉寺|相馬郡に泉應院として創建
正泉寺の概要
浄土宗寺院の正泉寺は、法呑山長源院と号します。正泉寺は、元亀3年(1572)に乗誉上人良達存冏和尚(寛永2年1625年寂)が、相馬郡に泉應院として創建、徳川家康の関東入国後(1590)麻布櫻田・赤坂溜池付近に移転、正泉寺と改号したしたといいます。その後、幕命により慶長16年(1611)西久保へ、承応2年(1653)に三田台町へ移転、明治末期から大正期にかけて当地へ移転したといいます。
山号 | 法呑山 |
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院号 | 長源院 |
寺号 | 正泉寺 |
住所 | 目黒区碑文谷1-8-14 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正泉寺の縁起
正泉寺は、元亀3年(1572)に乗誉上人良達存冏和尚(寛永2年1625年寂)が、相馬郡に泉應院として創建、徳川家康の関東入国後(1590)麻布櫻田・赤坂溜池付近に移転、正泉寺と改号したしたといいます。その後、幕命により慶長16年(1611)西久保へ、承応2年(1653)に三田台町へ移転、明治末期から大正期にかけて当地へ移転したといいます。
「芝區誌」による正泉寺の縁起
浄土宗の寺院中で、もと區内三田臺町にあつた正泉寺は、大正二年十二月十七日に目黒區碑文谷一ノ一ノ一二四に轉出した。(「芝區誌」より)
御府内寺社備考による正泉寺の縁起
芝増上寺末 三田
法呑山蓮栖院正泉寺、境内拝領地二千三百五十坪
開闢起立之儀者元亀三壬申年 比存冏与申僧於下総国相馬郡ニ小庵造立仕院号泉應院与申候然ル處 御入国後櫻田溜池之邊江引移於此地に一宇建立仕寺号正泉寺与御改申候其後慶長十六亥年中溜池之地相御用地ニ付於西之久保替地仕 又当寺第三世単誉法山代承応二巳年六月二日西之久保之地所御用地ニ相成於当所三田臺町ニ替地拝領仕候。
開山一蓮社乗誉上人良達存冏和尚生国下総之國相馬郡之人寛永二乙年五月十七日寂。
中興開山當寺三世登蓮社草誉上人志願法山和尚承應二年於當所三田臺町ニ當寺中興付け候延宝元丑年十月三日寂。
開基山角氏法名正泉院改誉法呑大禅定門元和六年二月廿五日卒当時小川町ニ而山角一左衛門与申候。
本堂、間口六間奥行五間半。
本尊阿弥陀如来木座像、長一尺七寸五分恵心作。脇立観音、勢至木座像、各長一尺三寸。善導大師木立像、長二尺八寸。圓光大師木立像、同前。地蔵菩薩木立像、長二尺三寸。
鎮守熊野権現、稲荷大明神、秋葉権現合社、間口六尺奥行八尺。
以上戌子書上(御府内寺社備考より)
正泉寺所蔵の文化財
- 式亭三馬墓(東京都指定旧跡)
式亭三馬墓
江戸時代後期の戯作者。安永五年(1776)江戸浅草田原町三丁目の家主菊池茂兵衛の長男として生まれた。名は太輔。字は久徳、通称は西宮太助、戯号に式亭三馬、遊戯堂、四季山人、本町庵、洒落斎、嘔(口羅)哩楼、滑稽堂、戯作舎、酔夢閣などがある。
寛政六年(1794)十九歳で処女作「天道浮世出星操」を著し、寛政十一年の「夫南木是嘘木侠太平記向鉢巻」では訴えられて奉行所に召喚されることとなった。文化七年(1810)以降は本町二丁目(現在の日本橋室町三丁目三井別館南東角)で家業の売薬店を経営しながら、黄表紙や洒落本、更に評価の高い合巻と滑稽本に優れた作品を出版した。「浅草観音利益仇討雷太郎強悪物語」は合巻の嚆矢となり、滑稽本では庶民の会話を活写した「浮世風呂」や「浮世床」が代表作である。文政五年(1822)閏正月六日四十七歳で死去し、深川雲光院の寺中長源院に葬られたが、関東大震災後正泉寺墓地に改装された。墓石台座にある「る」の文字を崩した馬の字(くくり猿)は三馬が経営していた売薬店の商標である。(東京都教育委員会掲示より)
正泉寺の周辺図