龍徳山雲光院|阿茶局発願による開創
雲光院の概要
浄土宗寺院の雲光院は、龍徳山と号します。雲光院は、阿茶局(法名雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉)が発願となり、還蓮社往誉潮呑和尚を開山に迎え滝徳山高巌寺と称して創建、天和三年(1683)に当地へ移転したといいます。阿茶局は今川家臣神尾孫兵衛久宗の妻で、德川秀忠の娘和子が後水尾天皇の中宮となる際には御母代を務めたといい、阿茶局没後、当寺も雲光院と号したといい、法蔵院・浄慶院・良正院・正覚院・一言院・正光院・清心院・長源院・養寿院・仙蔵院・伝寿院・樹光院・慈清院・浄徳院・清光儲・浄心院・固貞庵・樹光庵を塔頭に擁していたといいます。
山号 | 龍徳山 |
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院号 | 雲光院 |
寺号 | - |
住所 | 江東区三好2-7-14 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
雲光院の縁起
雲光院は、阿茶局(法名雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉)が発願となり、還蓮社往誉潮呑和尚を開山に迎え滝徳山高巌寺と称して創建、天和三年(1683)に当地へ移転したといいます。阿茶局は今川家臣神尾孫兵衛久宗の妻で、德川秀忠の娘和子が後水尾天皇の中宮となる際には御母代を務めたといい、阿茶局没後、当寺も雲光院と号したといい、法蔵院・浄慶院・良正院・正覚院・一言院・正光院・清心院・長源院・養寿院・仙蔵院・伝寿院・樹光院・慈清院・浄徳院・清光儲・浄心院・固貞庵・樹光庵を塔頭に擁していたといいます。
雲光院の縁起
雲光院
開山は還蓮社往誉潮呑和尚で、本願は阿茶局であり、天和三年(1683)に現在地に移ってきたという(「江戸名所図会」)。
阿茶局は今川家臣神尾孫兵衛久宗の妻で、永禄三年(1560)今川義元に供して久宗が討ち死後、天正一〇年(1582)家康が信州打入の際、幼子猪之助を携えて黒駒で嘆訴し、家康は駿府にいたときのよしみだったことを思い出し、母子とも召し、阿茶局と称し、近仕させる。元和六年(1620)後水尾天皇の中宮として秀忠の娘和子の御入内の際、阿茶局は御母代となり、従一位に叙せらる。江戸に滝徳山高巌寺を建て、死去の時に葬られ、二〇石寄付があった。法号は雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉。家綱の妻高巌院が亡くなったとき寺号を雲光院と改め、後に深川に移ったという(「柳営婦女伝系」七)。
塔頭として、法蔵院・浄慶院・良正院・正覚院・一言院・正光院・清心院・長源院・養寿院・仙蔵院・伝寿院・樹光院・慈清院・浄徳院・清光儲・浄心院・固貞庵・樹光庵があったいう(「江戸砂子」)。
神尾家の菩提寺で一般の檀家は持たず、僧侶の修行所としての役目を果たし、その流れをくみ修行僧が多かったという(「寺社めぐり14」)。関東大震災後、浄慶院と寿光院を合併する。(江東区の民俗深川編より)
雲光院のもと塔頭・末寺
雲光院所蔵の文化財
- 石造宝篋印塔(阿茶局墓塔) 寛永14年在銘(江東区指定有形文化財)
- 石造宝篋印塔 寛永14年在銘(江東区有形文化財)
- 木造阿弥陀如来立像(江東区有形文化財)
- 木造阿弥陀如来坐像(江東区有形文化財)
- 木造阿弥陀三尊及び諸尊像(江東区有形文化財)
- 木造阿弥陀三尊像(江東区有形文化財)
- 銅造地蔵菩薩半跏像(江東区有形文化財)
- 六字名号供養塔 祐天書(江東区有形文化財)
- 庄司甚右衛門墓(江東区有形文化財)
- 初代竹本越路太夫・三代野澤吉兵衛墓(江東区有形文化財)
雲光院の周辺図