御穂神社|常陸国へ流罪となった藤原藤房を祀る
御穂神社の概要
御穂神社は、港区芝にある神社です。御穂神社は、後村上天皇の御代(1339~68)に、常陸国へ流罪となった藤原藤房を祀り創祀したといいます。平成18年鹿島神社に合併、美穂鹿嶋神社となったといいます。
社号 | 御穂神社 |
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祭神 | 藤原藤房卿 |
相殿 | - |
境内社 | 稲荷神社 |
祭日 | 6月10日 |
住所 | 港区芝4-6-17 |
備考 | - |
御穂神社の由緒
御穂神社は、後村上天皇の御代(1339~68)に、常陸国へ流罪となった藤原藤房を祀り創祀したといいます。
東京都神社名鑑による御穂神社の由緒
後村上天皇の頃この芝浦に気高き一老翁あった。先に禁闕に奉仕の身であったが、南北両朝の時とてその逆浪を避けてこの地にさすらい、俗人の中に交りてささやかなる庵を結び住んでいた。そのころ此の地は戸数幾ばくも無く、漁村で、師もなく医もなく村人粗野朴訥礼節も備わらず、翁深くこれを憐み、忠孝に義を教へ導いたが、翁の罷り給うた後、その高徳を慕って、住んでいた庵の跡に仮に宮所を設け奇霊を斎い祀り、尉殿の宮と崇めたりという。この翁こそ藤原藤房卿であったと伝えられる。(東京都神社名鑑より)
「芝區誌」による御穂神社の由緒
御穂神社 本芝二丁目
祭神 藤原藤房卿。
文明十二年駿河國三保の漁人が此地に移つて、奮里の祭紳を勧進したと傳ふ。當社は疱瘡の守護紳である。當氏子は七歳までに疱瘡をしなければ、一生其わづらひにかからないといつて、疱瘡除けの守が出された。明治五年村社に列した。境内には大銀杏樹がある。「江戸名所圖會」には次ぎの如く記してある。
御穂神社、同所本芝通りより西の横町にあり。本芝の産土神にして、祭禮は三月十五日なり。別當は正福寺と號す。天台宗にして比叡山に属す。傳へ云、往古駿河國三穂の海人、此浦に来り住す。故に古郷の御神なればとて、文明十一年庚子のとし、ここに當社を勧請せしとなり。祭神御穂津彦、御穂津姫の二神なりといへり。
氏子區域 本芝二丁目、本芝材木町、本芝下町、三田四國町の一部、南濵町、日出町。
「風土記」の補遺に此社についての傳説が載つてゐる。今それを抄記して見ると、
いつの頃とも知れず、一人の老翁が、ささやかな草庵を結んで此地に住み、無智の漁夫に孝悌仁義の道を教へたり、風波の難を避けしめる爲めに澪標を立てさせたり、なにくれとなく浦人を指導したので、死後神に祀られ、尉殿の宮と崇められてゐた。其事を文明十二年關東へ下向の公卿が聞かれて、其翁は澪を教へたから「みをの明神」とあがむべきだといつたので、それが今の神號になつたのだ。其翁は事によると、南北朝の亂を避けて隠世し、上州野州をさすらつた萬里小路中納言藤房卿であるかも知れない。神號は初め「三尾」と書き、後に今の文字に改められた。
といふのである。古へは名もない浦邊の小祠も、江戸が大都會になつて、参詣者が殖えると、縁起の必要を生じて、牽強付会の説を傳へるのが常である。當社の神號から見ても、位置から見ても、傳説から考へても、それが駿河の三保神社の分霊であることは疑へない。(「芝區誌」より)
御穂神社の周辺図
参考資料
- 東京都神社名鑑
- 「芝區誌」