佛智山円通寺|港区赤坂にある日蓮宗寺院

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佛智山円通寺|「十二干の詩」の梵鐘

円通寺の概要

日蓮宗寺院の円通寺は、佛智山と号します。円通寺は、佛壽院日通上人が開山となり寛永2年(1625)創建、元禄8年(1695)類焼により、当地に移転したといいます。江戸期には、梵鐘に深草元政の筆による「十二干の詩」が彫られており、頗る著名だったといいます。

円通寺
円通寺の概要
山号 佛智山
院号 -
寺号 円通寺
住所 港区赤坂5-2-39
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



円通寺の縁起

円通寺は、佛壽院日通上人が開山となり寛永2年(1625)創建、元禄8年(1695)類焼により、当地に移転したといいます。江戸期には、梵鐘に深草元政の筆による「十二干の詩」が彫られており、頗る著名だったといいます。

「赤坂區史」による円通寺の縁起

日蓮宗圓通寺(山號佛智山、伊豆妙法華寺末)一ツ木町六十番地
寛永二年三分坂上の拝領地に起立したもので、その後元禄八年二月の大火に類焼後三分坂上の寺地は御用地となり、ために同年四月、西尾隠岐守上地跡に現在の寺地を拝領移轉したのである。
開祖は圓通印日亮(正保三年六月二十六日寂)、中興は佛壽院日通(寛文十一年十二月十五日寂)。
一説に、當寺はもと一の草庵であつて藝州侯下屋敷のところにあつたのを、同侯が屋敷を賜つた時、三分坂上に引移り、その頃から一寺となつた(改撰江戸志)とも云ひ、また三分坂上に在りし時分は、圓通庵と號したと俗間に傳へらるゝも、寺にはその傳がない。(御府内備考)
今鍾樓に懸つてゐる洪鐘には、深草元政の筆に成れりと傳へらるゝ左の鐘銘を刻してあるが、此銘は毎句十二支の字を冠し、所謂「十二支の鐘」として諸書にも掲げられてゐる。頗る著名の鐘である。
鼠山流光人未驚
牛王出世振梵聲
虎狼野干氣縦横
兎角方便誘群情
龍宮高處撃華鯨
蛇室睡破覺心生
馬腹忽變聖胎成
羊鹿牛車休復轟
猿啼霜降月色清
雞人未唱客先行
狗不夜吠王舎城
猪觸金山轉崢嶸
元禄六年版温清軒の江戸繪圖にも、「エンツウ時のカネ」とある如く、寶暦頃までは當寺で時の鐘を撞いたものであつた。續府内備考に從へば、元禄大火後移轉の際に、替地を他の場所へ賜るべく内定してゐたのであつたが、時の鐘を撞くゆゑ是非この邊に賜り度し願出でたので、今の地を給せられたものであると云ふ。
しかるに、右「十二支の鐘」は、如何なる理由か、その行方が久しく人に知られない期間があつた。これに關して紫の一本は「圓通寺へ行き鐘を見るに、跡もなし」と記し、又江戸名所圖會は「往古廢せし圓通寺の洪鐘は圓通坊といへる沙門建立する所とぞ。銘は深草元政法師の撰する所なり。其の鐘今は亡びてなしといへども」云々と記述してゐる。
鍾樓の傍には、覆屋の下に、唐銅の浄行菩薩立像が安置されてゐる。
寺内に因是道人葛西休文(儒者、名は質、字は久文、通稱健蔵、老荘の學に造詣深く、林家門下五蔵の一人と稱せられた。文政六年四月歿、年六十或は六十二。)の墓があると、新撰東京名所圖會は記せるも、今見當らず、因是の墓は現に小石川區表町浄土宗法蔵院の墓域にある。(「赤坂區史」より)

東京名所図会による円通寺の縁起

円通寺
圓通寺は一ツ木町六十番地にあり、佛智山と號す、日蓮宗妙法華寺(伊豆國玉澤)の末、開山は圓通院日亮和尚といふ、數々回禄、舊記焼失せるを以て、草創の年月詳らかなるを得ず、現住職は中里日勝師なり。
黒の扉門、佛智山の三字を扁す、門内左に開山堂あり、七面大天女を配祀す、その門前に石の盥水盤及唐銅化粧側の閼伽井あり、傍に撞鐘堂を置く、堂の臺石に接して、浄行菩薩の立像を安ず、像は唐銅佛なり、覆屋を設く、参詣の男女、必ず灌頂あり、故に刈萱たはしは四邊に壘々然たり。本堂は瓦葺・桁行六間梁間七間、向拝あり、鰐口を懸く。堂の右は葬祭場にして、素木造、格天井を組み、位牌壇を設く、以て庫裡に通ず。葬祭場、庫裡各その玄關あり、共に本堂の左に位し、「字形に折廻はして、開山堂、鐘撞堂に對せり。
享保二十年板、續江戸砂子に云、圓通寺と云日蓮宗の寺あり門内の大鐘は、むかし圓通坊といふ沙門、此鐘を建立し、寺と成ける所に破壊したり、今の日蓮宗の寺は四谷にありて、何寺といひけるか、鐘の舊蹟あるにより合體し圓通寺となりて一寺とす、先年は二六時中鯨音ありしか、近年は二六をつかず。
元禄六年版温清軒の江戸絵圖にエンツウシ時のカ子
住職の直話に、當時の沿革たるや、そもことふりにたれど、鎌倉幕府の頃には、此邊一圓に児玉党の領地なるよし、時に文永八年十月地頭六右衛門時國の室、産に難む。一夜靈夢あり、告げて曰く、明日名僧此地を過ぎなむ、汝祈祷を受けよ。翌、宗祖日蓮大士、佐渡に謫せらるるに會ふ、路に児玉の館前を過ぎる、時國請らく、名僧と稱するは、此衲ならむか、即ち途上に迎へて、その祈願を請ひしに、産の紐、安らかに解けぬ。時國大に喜び、一門改宗す、又、邸内に一宇を創し、祖師堂と崇めたり。物換り星移り、天正十八年、徳川家康入國の際には、児玉の館址、覓むべからず、原頭纔に一草堂を存するあるのみ。圓通院日亮、適々此地に抵り、傍に庵室を結ぶ、遂に寺観を為すと。しかるに日蓮大士真實傳を讀むに、左の如く記せり。
文永八年十月十日依智を御發足ありけるに、警固の武士前後をかこみ、また御見送りには、日興、日向、富木殿よりの入道一人、又日朗の御母、妙一尼よりの御人、その外熊王四郎など、五六人傳添奉り、此夜は武州入間郡、粂川に宿り、明る十一日、新倉にさしかかり給ひしに、新曾の地頭、墨田次郎時光その妻難産に苦しみけるゆゑ、此の地の土生神に祈念を籠めたるに、昨夜の靈夢の告に、明日は日蓮といふ名僧、この地に来るべし、其人ならでは助けがたしとありけるにぞ、次郎時光、暁天より途中に立て、待受奉り、其祈願を請、大士路の側に小社のありける、其前に休息てしばし御経有て、本尊を給ひしに、忽ち安産して、その小児も亦壮健なり、夫婦をはじめ、一門の喜び大方ならず、これより深く大士を歸依し、時光後年出家して、日徳と號し、新曾妙顕寺を建立す、今に子安の曼荼羅を什寶とす。
咄、妙顕寺の縁起を説きて、俗を欺かむとするか、尚、真實傳の次條に、
十三日児玉に至る、六右衛門時國、大士を我が家に宿し奉り、一家残りなく改宗す。
の文あり、真實傳載する所誤れるか、記者浅学寡聞、瓣ずる能はざる也、亦、開山を圓通院日亮と聞えしも、新編江戸志には、佛智山圓通寺、日蓮宗、玉澤末、開山佛壽院日通上人と明記せり。
江戸砂子に拠れば、方今の寺観は、舊、四谷の地にありて、某山某寺と號したりしが、後、圓通寺の遺址に移り、そのまま寺號を冒したるものとせり、此説、否定すべからず、江戸名所図會には、圓通寺舊跡と載せて、更に痛快なるものあり。
天保七年版江戸名所図會に云、圓通寺舊跡、寺町にあり、此の地の申の方より寅の方に向ひて下る坂を圓通寺坂と云ふも此故なり、今此地に佛智山圓通寺といへる日蓮宗の寺あれども、古への圓通寺とは異なり、往古廃せし圓通寺の洪鐘は圓通坊といへる沙門建立する所とぞ、銘は深草元政法師の撰する所なり、其の鐘今は亡びてなしといへども、古きを存せむが為め、草山集に出るを以て、ここに記して其の舊跡を失はざらしむ。
(鐘銘文、及び以下中略)
住職日勝師はかく宏壮輪奐の寺閣を経営したるのみならず、一面意を婦女教育に努め、同區檜町に於て、愛敬女學校を設立せり、又、曾て僧風革新論、一名蕃妻成佛義の著あり。
當山は方今布教傳導を以て之が主となせり、されば墓地を有すれども、纔かに九十坪に過ぎず、毎月九、十五二十八日説経あり祖師堂の参詣、連日絶えず、ことに十月十二、三兩日は、その正忌なるより、賽客雑沓せり。寺内に因是道人葛質體文の墓あり。
因に云、稲荷山圓通寺、開山圓通院殿(板倉駿河の法名)、妙心寺派の禅刹なり、寺號同一なれば、之を参照するも、敢て不可なりといはず、赤坂臺町の條なり。(東京名所図会より)


円通寺の周辺図


参考資料

  • 「赤坂區史」
  • 東京名所図会