妙顕寺。新倉の領主隅田五郎時光が開基
妙顕寺の概要
日蓮宗寺院の妙顕寺は、長誓山安立院と号します。妙顕寺は、日蓮上人の護符により、新倉の領主隅田五郎時光の一子が無事出産できた事から、隅田五郎時光(日徳)が開基となり、日向上人を招請して弘安4年(1281)に開山したといいます。江戸期には寺領18石の御朱印状を拝領していました。
山号 | 長誓山 |
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院号 | 安立院 |
寺号 | 妙顕寺 |
本尊 | 題目曼荼羅 |
住所 | 戸田市新曽2438 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙顕寺の縁起
妙顕寺は、日蓮上人の護符により、新倉の領主隅田五郎時光の一子が無事出産できた事から、隅田五郎時光(日徳)が開基となり、日向上人を招請して弘安4年(1281)に開山したといいます。江戸期には寺領18石の御朱印状を拝領していました。
戸田市教育委員会掲示による妙顕寺の縁起
妙顕寺は、長誓山安立院と号し、日蓮宗身延山久遠寺の末で、江戸時代には寺領十八石の御朱印を下付されていました。
日蓮上人が佐渡へ流刑になる途次、武州新倉(和光市)の辺りを通るとき、新倉の領主隅田五郎時光が難産に苦しむ妻のために、日蓮上人に安産の護符を乞いました。そのかいあって一子徳丸を無事に得たため、日蓮に帰依して一寺を起立し、日蓮上人の高弟日向上人を招請して弘安四年(一二八一)に開山したのが始まりと伝えます。
本尊は、日蓮上人自筆の題目曼荼羅で、「子安曼荼羅(弘安二年銘)」「建治大本尊(建治元年銘)」などと呼ばれるものがあります。そのほか寺宝として、日向上人が日蓮上人の法話を筆録したと伝える「日向記」などがあり、日蓮上人の墨跡とともに埼玉県指定文化財となっています。本堂には、縁起由緒や子供の遊ぶ様子などを色彩豊かに描いた多くの大絵馬が奉納されています(市指定文化財)。 また、本堂の脇には、縁起に題材を得たレリーフのある供養塔(明治十三年銘)などがあります。(戸田市教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による妙顕寺の縁起
(新曾村)妙顕寺
日蓮宗、甲斐国身延山末、長誓山安立院と号す。寺領18石の御朱印を賜ふ。本尊日蓮の像を安ず。日法の作なり。これを子安の祖師と称す。相傳ふ当時当所の人墨田五郎時光起立す。其故を尋るに文永8年日蓮佐渡国へ流罪せられ、配所に趣かんとして時光が領地新座郡新座村の邊を過し時、たまたま時光が妻難産に罹り命も危かりしかば、日蓮に安産の符を請はんと家に迎けれど、流人の事なればとて其家には至らず。当所にて符を与へしに、程なく男子安産す。是を徳丸と名づく。是より時光信心を起し一寺建立の願あり。弘安3年徳丸10歳の時、父子ともに甲斐国身延山にいたり日蓮に投じて出家し、時光は日徳、徳丸は日堅と改む。後宿願の如く当寺を起し、日蓮が高弟日向を請て開山とし、日徳は第二世の住持たり。正中2年12月12日示寂す。日堅は第三世の住職となり、元徳元年3月寂すと。按に高祖年譜によれば、日蓮安産の符を授与せし所は、今の下新倉村妙典寺旧蹟なりと云。又同書に時光は新曾の城主と記せり。同書改異には総州隅田村高橋五郎時光なりと載せたり。此墨田村は葛飾郡墨田村のことにや。
されど其地より新倉までは里程若干隔てたり。且妙典寺にも新曾の人なりと傳ふれば、改異は誤なるべし。又上総国笠森寺の縁起に、墨田五郎観音の利益により、日蓮に逢ひて出家し日徳とし、後墨田の郷に妙源寺と云一院を建立すと見ゆ。是も又一説なり。今も上総国埴生郡に須田村と云地あれば、此説も俄に捨がたし。
寺宝。
曼陀羅一幅。肥やすの曼陀羅と号す。日蓮の自筆にして文永8年時光に授与せしものなりといへど、紙上現に弘安3年10月沙弥日徳授与之とあれば、前説誤なり。其図右に出ず。
釈迦堂。此釈迦は五郎時光が守佛なり。其子徳丸出生の時、霊験により日蓮安産の符を授かりしかば、今も懐妊の婦人へは安産の符を出すと云。
三十番神社。石神社。
鐘楼。鐘に長誓山妙顕寺、二十二世日養代とのみ彫る。
仁王門。
総門。(新編武蔵風土記稿より)
妙顕寺所蔵の文化財
- 日蓮上人自筆の題目曼荼羅(埼玉県指定文化財)
- 「日向記」(埼玉県指定文化財)
- 妙顕寺絵馬群(戸田市指定文化財)
- 慶長の板碑(戸田市指定文化財)
妙顕寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
関連ページ
- 長光山妙典寺(日蓮宗)
- 隅田五郎時光の館地