心光院|港区東麻布にある浄土宗寺院
心光院の概要
浄土宗寺院の心光院は、心光院は、酉譽聖聴上人が開基となり、惠照律院光阿上人が開山したといい、宝暦11年(1761)淳信院殿廟堂造営に際して三縁山増上寺内から赤羽橋付近へ移転、太平洋戦争で罹災、区画整理事業により昭和25年当地へ移転したといいます。
山号 | - |
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院号 | 心光院 |
寺号 | - |
住所 | 港区東麻布1-1-5 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
心光院の縁起
心光院は、酉譽聖聴上人が開基となり、惠照律院光阿上人が開山したといい、宝暦11年(1761)淳信院殿廟堂造営に際して三縁山増上寺内から赤羽橋付近へ移転、太平洋戦争で罹災、区画整理事業により昭和25年当地へ移転したといいます。
「麻布區史」による心光院の縁起
心光院 飯倉町五ノ五七
三縁山増上寺の塔中で、酉譽聖聴の開基に係り、開山は惠照律院光阿上人である。初め山内涅槃門の附近に在つたが、寳暦十一年淳信院殿廟堂造營の爲め取払はれて今の地に移された。
布引観音と呼ぶ馬頭観音安置の小堂があるが、これは臺徳院殿の愛馬の供養に營まれたものである。もとは傍に念佛執行の白駿庵と呼ぶ小庵もあつた。尚、當寺には節婦竹女(お竹大日如来)の遺物が蔵されてゐる。
名墓に戯作者南仙笑楚満人の墓がある。通稱は楠彦太郎、芝宇田川町の書肆の主人で、敵討双紙を中興した。文化四年三月九日歿年五十九、法名只但愛楽翁居士。(「麻布區史」より)
東京名所図会による心光院の縁起
心光院
心光院は。飯倉町五丁目五十七番地にあり、三縁山増上寺の塔中にして、其別院と稱せり。開山惠照律院光阿上人、初め山内涅槃門の邊に在りしに、寶暦年間、今の地に移されしといへり。山門は瓦葺總朱塗、「茲理光蘭若」の額を掲ぐ、大僧正嶺譽の筆なり、門内、左に垣を結ひ、故大議生正六位大橋君の墓誌を建つ、甃石一條、其中央に於て二岐となり、一は本堂に達し、一は玄關に通ず、本堂は寶形造、瓦葺、二重屋根、四隅に寶鐸を釣り、總白堊塗、「浄業別場」の額あり。正面向拝造、唐獅子と象鼻の素彫、天井に漆喰塗の龍王蟠まりぬ。堂前に唐銅の露佛一基あり、鐡柵を設け、柵柱に明治三十一年六月創建の銘を鐫す。當院の由緒は三縁山志載する所、最も詳なるを以て、左に之を抄出すへし。
御當山いまだ貝塚にありし時は學寮なり、慶長三戌年御引移の時寮舎(今坊中を云ふ)の外になりしを、元禄八亥年台徳院殿の御側女正智院(内藤外記正重女)内藤外記と兼て志願の遺言にて冥加の為め、台徳院殿御菩提の御為、常念佛當院に於て執行致され度旨、貫主貞譽大僧正へ申入られ、同年四月十九日別時念佛開闢ありて、貫主導師の上弟子心導へ住職申渡され、香衣別院と相定、神祖君台徳君尊牌安置し奉る。其後宝永二酉年恵照院新に御建立の節、貫主湛譽大僧正より當院主心巌へ兼住命せられける時、豊小路(大奥御老女)より桂大夫人の尊牌御安置これあり、後寶暦十一巳年惇廟御入棺後、御廟程近故、赤羽へ御引移になり、御當山境内と稱し、前来の別院にて、當今不行念佛の道場なり。
寶暦十三未年三月地改境内九百坪を給ふ、又観音堂境内二百十一坪三合を下さる。當院は外境たりといへとも、山内別院に列し、常に山内の法席にあづかる故に今茲にのす。
本尊阿弥陀佛、座像、慈覚大師の作
文禄二巳年二月廿九日源譽観智国師の安置なり(自筆にて本尊の後に書付あり)神祖御開國より天下安全國家長久の御祈願を込させられ、台廟御入棺の節、尊牌安置し奉る。尚又神祖御尊影は観智國師の彫作自身の肖像も、元和六申年三月廿七日開眼し共に納む。
千體無量壽佛
観智国師壮年精學の砌、須藤善右衛門(傳馬町住)歸依深く、度々化益を蒙りしが、後に國師となり賜へる時、須藤氏より此 體佛を自刻し、當院に納度旨故、國師許諾して内道場の傍に小堂を建、千體堂と稱せらる(須藤氏は今猶小傳馬町に小林庄三郎とて當院の檀家なり)國師の肖像は此人の彫刻にて納む。
事實記云、千體堂は元和元年松平陸奥守家来下田大膳建立、寛永十九年業譽上人再興、元禄八年又再興、同年四月十九日貞譽公不行念佛開白(愚按に須藤氏の造立は元禄中興の時か未詳)
布引石像観世音菩薩
台廟御出陣の節召されし御寵愛の白馬あり、尾に布を一反結はせられかけさせ給へと、其布地に付ず故に布引と名く。
御他界の後當山へ納め賜ふに、御山内を不出、廿四日には御廟前へ自然と出たり。行者榮保預りとして馬士に命しいたはりけるに三四年の後斃れしかは、埋めし其上に一宇御取立成下され、観音石碑を居へ、布引観音と名け、その脇に庵室を結ひ、念佛執行し住せし其庵を白駿菴と名く(今以右の堂御修復所なり)
事蹟合考云、心光院は本譽上人の開基。(東京名所図会より)
心光院の周辺図
参考資料