高岩山永昌寺|西方三十三所観音
永昌寺の概要
曹洞宗寺院の永昌寺は、高岩山常住院と号します。永昌寺の創建年代等は不詳ながら、当寺4世玖岩壽悦和尚(寛永12年1635年寂)が開山したといいます。(現在活動していませんが)西方三十三所観音7番です。
山号 | 高岩山 |
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院号 | 常住院 |
寺号 | 永昌寺 |
住所 | 港区六本木2-1-20 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
永昌寺の縁起
永昌寺の創建年代等は不詳ながら、当寺4世玖岩壽悦和尚(寛永12年1635年寂)が開山したといいます。
「麻布區史」による永昌寺の縁起
高岩山永昌寺 谷町一三
本尊釋迦、三田聖坂功雲寺末。草創不詳であるが、四世の玖岩壽悦和尚(寛永十二年八月二十一日寂)を以て開山としてゐる。元は坂下にあつたが中興の祖、鷲峰霄天(寶暦七年四月二十六日寂)の代延享元年四月に現地へ移つた。
山門を入つた右側に年経た石地蔵が立つてゐる。これは天保八年、濵御殿修理の折、多数の人骨と共に海中より發掘せるものと傳へ潮噴地蔵の俗稱がある。左手の墓地には菊池父子と高井元益の墓が建つている。
菊池衡嶽 紀州藩儒官、名は叔成、通称内記、江戸の人、本姓關口氏。蜀山人と交厚く岡部四溟・山内穆亭と共に世に牛門(牛込御門)の四友と呼ばれた。文化二年閏八月十六日五十九歳を以て歿した。墓碑は蜀山人の撰文に係り、「衡嶽菊池先生之墓」の表面隷書は柴野栗山の手になる。又撰文の文字は虞世南の『夫子廟堂碑』から採つて集字した珍しいものである。
菊池西臬 衡嶽の長子、諱は元習、字は博甫。文化十年九月七日歿、年四十五。
高井元益 尼崎藩醫官、諱は淑従、静斎と號す。元益は字である。嘉永五年十月十日七十一歳を以て歿した。石燈籠や石柵に門弟八十五人の名が刻され、墓碑は當時書名天下に鳴つた福山藩の小島成斎に依つて書かれてゐる。
岡本玄琳 醫家、貞享元年九月二十二日卒。(「麻布區史」より)
永昌寺の周辺図
参考資料
- 「麻布區史」