多聞山天現寺|良堂和尚、本尊毘沙門天
天現寺の概要
臨済宗大徳寺派寺院の天現寺は、多聞山と号します。天現寺は、小日向御箪笥町にあった普明寺の名跡を継ぐ形で、祥雲寺11世良堂和尚が開山となり、多聞山天現寺と号して享保4年(1719)に創建したといいます。良堂和尚は、その後品川東海寺54世に転住、本山大徳寺293世も勤めた名僧です。
山号 | 多聞山 |
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院号 | - |
寺号 | 天現寺 |
本尊 | 毘沙門天 |
住所 | 港区南麻布4-2-35 |
宗派 | 臨済宗大徳寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
天現寺の縁起
天現寺は、小日向御箪笥町にあった普明寺の名跡を継ぐ形で、祥雲寺11世良堂和尚が開山となり、多聞山天現寺と号して享保4年(1719)に創建したといいます。良堂和尚は、その後品川東海寺54世に転住、本山大徳寺293世も勤めた名僧です。
「麻布區史」による天現寺の縁起
多聞山天現寺 富士見町四九
大徳寺派、享保四年小日向御箪笥町より移轉、普明寺を改めて現寺號を稱した。開山は良堂和尚(享保十八年四月二十九日寂)本尊毘沙門天像は高さ三尺一寸、聖徳太子御作にして多田満仲念持佛と傳へらる。享保十二年八月大學頭林信光の撰文になる縁起が現存してゐる。信充は又寺内の十境靈梅祠。育王塔・聴水橋・敲月楼・雨華壇・冷燈龕・雷電森・澁谷川・白銀臺・青蓮峯を撰び、各々詩を賦してゐる。
境内に石の盥水盤があり、銘に「幕南廣尾天現寺毘沙門堂石水盥一基、天保十七年七月濵松城主水野氏置」と見える。又、天保六年富澤町講中寄進の虎石像・文政六年芭蕉句碑・四神碑等がある。釣鐘は江戸には珍らしく八王子横川の鋳物師加藤式部吉高が享保五年四月作つたものである。
光孝天皇御陵の塔と傳へる六尺ばかりの御影の石燈籠があり、古来好事家の眼に觸れ諸書に記されてゐる。「遊歴雑記」にも「笠石より臺石にいたりて六つになると見ゆ。惜しい哉上より五ツ目六ツ目の二本は御影にあらず紛失したるを以て後世補ひ作りしものと覺ゆ」と考證してゐる。これは千利休の作と謂はれるもので、諸處を轉々した後茶道の名家として知られた金森家の許に入り後當寺へ寄進されたものである。(「麻布區史」より)
東京名所図会による天現寺の縁起
天現寺
天現寺は、麻布富士見町四十九番地にあり、多聞山と號す、京都大徳寺末の禅刹なり。現住職秦宗東。門内右に石の盥水盤あり、銘に「幕南廣尾天現寺毘沙門堂石水盤一基、天保十七年七月、濱松城主水野氏置」と刻す、甃石一條、以て本堂に通ず、堂の額に「多聞天」とあり、左右に鐡燈籠及び狛犬を置き、正面に鰐口を懸く。
江戸名所図會に云、毘沙門天、廣尾町四町計巽の方、渋谷川の此岸多門山天現寺といへる禅刹に安置せり。本尊毘沙門天の靈像は樟の丸木作りにして、聖徳太子の彫像なりといへり。(其丈三尺一寸)相傳ふ多田満仲の念持佛にして、源家累代守護の靈像たり。傳通院殿深く尊信ましまし安部摂津守信春に御預あり。其後仙石因幡守久信の家に傳へ、又祥雲寺に収め、後に當寺を開創し、始てここに安置せり。(本尊来由の記は、林學士信充先生の文章にして、當寺の什寶なり。)(毘沙門天縁起省略)
光孝天王御陵石燈籠(毘沙門堂の前左の方にあり、御影石の燈籠にして甚古雅なり、いづれの頃にかありけん金森家より寄附ありしといふ。)
古石燈籠の事、江戸砂子にも左の如く記せり。
光孝天王御陵の塔。境内にあり、六尺ばかりの石燈籠なり、いかなるゆゑありしか、尋るにしれず、銘もあれども古びてよめず。
今、その存否を詳からにせず、信義瓣ずる能はざる也、姑く記して後考を竢つ。(東京名所図会より)
御府内寺社備考による天現寺の縁起
京都紫野大徳寺末 麻布広尾
多聞山天現寺、境内二千八百七十二坪古跡年貢地三百九十坪年貢地二千四百八十二坪持添地千二百四坪
享保四巳亥年土井伊予守殿寺社御奉行之節小日向御箪笥町ニ在し同宗普明寺引地當所に移多聞山天現寺と改号仕候(御府内寺社備考より)
天現寺の周辺図
参考資料
- 「麻布區史」
- 東京名所図会
- 御府内寺社備考