龍渓山源昌寺|片桐東市正且元再興
源昌寺の概要
曹洞宗寺院の源昌寺は、龍渓山と号します。源昌寺は、勅特賜青松寺十世輝山咄光禅師心午英道大和尚が開山となり、慶長10年(1605)六番町に創建、寛文8年(1668)に三田樹木谷へ移転、片桐東市正且元(法名基顕孝院殿三英宗玄大禅定門)が中興となり再興したといいます。
山号 | 龍渓山 |
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院号 | - |
寺号 | 源昌寺 |
住所 | 港区高輪1-23-28 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
源昌寺の縁起
源昌寺は、勅特賜青松寺十世輝山咄光禅師心午英道大和尚が開山となり、慶長10年(1605)六番町に創建、寛文8年(1668)に三田樹木谷へ移転、片桐東市正且元(法名基顕孝院殿三英宗玄大禅定門)が中興となり再興したといいます。
御府内寺社備考による源昌寺の縁起
貝塚青松寺末 三田樹木谷
龍渓山源昌寺、境内拝領地六百二十五坪余地続年貢地四百三十四坪
慶長十乙巳年六番町ニ於イテ建立仕候処御用地ニ被取上寛文八戌申年三田樹木谷江替地拝領与仰付候。
開山勅特賜青松寺十世輝山咄光禅師心午英道大和尚明暦元乙未年十一月十三日寂。
中興開基顕孝院殿三英宗玄大禅定門俗称片桐東市正且元(御府内寺社備考より抜粋)
「芝區誌」による源昌寺の縁起
源昌寺 白金丹波町八番地
曹洞宗青松寺末で、寺號を龍渓山と云ふ。慶長十年今の番町邊に創建し、寛文八年此地に移つた。片桐且元を中興の開基とし、僧牛道を開山とする。(「芝區誌」より)
源昌寺所蔵の文化財
- 増田甲斎墓(東京都旧跡)
増田甲斎墓
遠州掛川(静岡)の藩士であったが脱藩した。砲術に秀で諸藩主から求められたが固辞して応じなかった。一時博徒の頭目となり数度獄に投ぜられたが悟る所あって仏門に入り、池上本門寺の幹事に挙げられたが、やがて身を雲水に寄せ、伊豆に逗留中ロシアの入港にあい、ここからロシアに渡った。彼はロシアの外交官となり幕府の使節が来た時その接遇係を命ぜられた。
彼はヨーロッパおよびインドを巡回した。明治六年(1873)岩倉具視がモスクワに来た時、甲斎に帰国をうながしたため帰朝した。帰国後直ちに隠退、庵を結んで世塵をさけ、明治十八年(1885)五月三十一日歿した。年六十五。(東京都教育委員会掲示より)
源昌寺の周辺図
参考資料
- 「芝區誌」
- 御府内寺社備考