醫王山廣岳院|西方三十三所観音
廣岳院の概要
曹洞宗寺院の廣岳院は、醫王山と号します。廣岳院は、芝西久保丸山竜土(現在の港区愛宕山近辺)にあった薬師堂を全梁禅師が文禄3年(1594)一寺として創建したといいます。承応2年(1653)当地へ移転したといいます。(現在活動していませんが)西方三十三所観音25番です。
山号 | 醫王山 |
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院号 | 廣岳院 |
寺号 | - |
住所 | 港区高輪1-24-6 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
廣岳院の縁起
廣岳院は、芝西久保丸山竜土(現在の港区愛宕山近辺)にあった薬師堂を全梁禅師が文禄3年(1594)一寺として創建したといいます。承応2年(1653)当地へ移転したといいます。西国三十三ヵ所霊場25番です。
東京名所図会による廣岳院の縁起
廣岳院は、二本榎町一丁目六十番地に在り、醫王山と號す。
江戸砂子に云、醫王山廣岳院、常陸永巌寺末、三田、當寺はもと西の窪番神山にありしが、正保年中此地にうつる。
二本榎町に編入したるは、明治以後なり、此の地三田君塚町に接すれば、往時は三田とも唱へたり。當寺は西國二十五番の札所なり。(東京名所図会より)
「芝區誌」による廣岳院の縁起
廣岳院 二本榎一丁目六十番地
曹洞宗常陸永巌寺末で、山號を醫王山と稱する。文禄三年、西久保にあつた薬師堂を寺となし、醫王山宗英寺と號したのが本寺の前身である。其後開基佐久間某の法號を取つて廣岳院と稱してゐる。現在地に轉じたのは承應二年で、本尊十一面観音は上杉謙信の守佛と稱せられ、西方二十五番の札所である。(「芝區誌」より)
廣岳院の周辺図
参考資料
- 「芝區誌」
- 東京名所図会