殿塚と姫塚|練馬区石神井台の名所旧跡

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殿塚と姫塚|練馬区石神井台の名所旧跡

殿塚と姫塚の概要

殿塚と姫塚は、練馬区石神井台にある名所旧跡で石神井公園内にあります。殿塚と姫塚は、太田道灌に敗れた石神井城主豊島泰経と、三宝寺池に入水したと伝えられる二女照姫とを偲び、縁者が塚を築いたと伝えられるといいます。江戸時代後期に編纂された新編武蔵風土記稿では、三宝寺第6世照日上人を葬った塚として「照日塚」を記載、大正7年に刊行された「北豊島郡誌」でも「照日塚一名姫塚と呼び、其東方十餘間に殿塚あり」としていることから、豊島泰経と照姫に関する伝承は、大正年間から昭和時代に入って生まれたものと思われます。

殿塚と姫塚
殿塚と姫塚の概要
名称 殿塚と姫塚
みどころ 史跡
入場時間 -
入場料 無料
住所 練馬区石神井台1-33-44石神井松の風文化公園
備考 -




殿塚と姫塚

殿塚と姫塚は、太田道灌に敗れた石神井城主豊島泰経と、三宝寺池に入水したと伝えられる二女照姫とを偲び、縁者が塚を築いたと伝えられるといいます。江戸時代後期に編纂された新編武蔵風土記稿では、三宝寺第6世照日上人を葬った塚として「照日塚」を記載、大正7年に刊行された「北豊島郡誌」でも「照日塚一名姫塚と呼び、其東方十餘間に殿塚あり」としていることから、豊島泰経と照姫に関する伝承は、大正年間から昭和時代に入って生まれたものと思われます。

練馬区掲示による殿塚について

殿塚の由来
文明九年(一四七七)石神井城が上杉氏の軍将太田道灌との戦いに敗れて落城したときに、城主豊島太郎泰経は黄金の鞍をつけた愛馬に乗り三宝寺池に沈んだという伝説があります。この塚は縁者が徳をしのんで築いたといわれています。
また、これより西方三〇メートルのところに、落城のとき同じく三宝寺池に身を投げた城主泰経の二女照姫供養の姫塚があります。(練馬区教育委員会掲示より)

練馬区掲示による姫塚について

姫塚の由来
文明九年(一四七七)に石神井城が落城したとき、城主豊島太郎泰経の後を追い、二女の照姫も三宝寺池に入水したという伝説があります。
この塚は、縁者が姫の供養のために築いたといわれています。(練馬区教育委員会掲示より)

「北豊島郡誌」による殿塚と姫塚について

照日塚
三寶寺池畔松林の中に古墳一基存せり、之を照日塚一名姫塚と呼び、其東方十餘間に殿塚あり、碑面に「月はなし照日のまゝの今宵かな」の句を鐫る、江戸名所圖繪に曰く。
照日塚、同所三寶寺にあり者老相傳ふ當寺開山會在京の頃八月十五日夜雲上座外に侍して、發句を奉る月はなし照日のまゝの今宵かな、公卿雲慶賞歎して叡覧に備ふ御感ありて照日上人の號を賜ふと云々、此塚うたがふらくは照日上人の墓ならんといへども詳ならず。(「北豊島郡誌」より)

新編武蔵風土記稿による殿塚と姫塚について

(上石神井村)
照日塚
三寶寺池の北丘上にあり、同寺第六世定宥故ありて京都に上り、中秋の夜雲客の雅筵に侍することを得て、月はなし照日のまゝの今宵かな、といへる發句を献せしかは、事叡聞に達し照日上人と勅號を賜ひしと云、遷化の後こゝに葬れり、よりてかく名付塚上に松一株立り、(新編武蔵風土記稿より)


殿塚と姫塚の周辺図