東高野山長命寺|後北条氏の一族増島重俊が諸堂を建立、御府内八十八ヶ所、武蔵野三十三観音、豊島八十八ヶ所
長命寺の概要
真言宗豊山派寺院の長命寺は、東高野山妙楽院長命寺と号します。長命寺は、慶長18年(1613)後北条氏の一族である増島重俊が諸堂を建立、寛永17年(1640)に大和長谷寺の秀算により「長谷密寺」と号したといいます。奥の院は、高野山の地勢を模しており、東高野、新高野として隆盛、江戸幕府には9石5斗の御朱印を与えられていたといいます。御府内八十八ヶ所霊場17番、豊島八十八ヶ所霊場17番、武蔵野三十三観音霊場発願札所です。
山号 | 東高野山(旧谷原山) |
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院号 | 妙楽院 |
寺号 | 長命寺 |
住所 | 練馬区高野台3-10-3 |
本尊 | 十一面観世音菩薩 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | 長命寺東高野会館 |
備考 | 御府内八十八ヶ所霊場17番、豊島八十八ヶ所霊場17番、武蔵野三十三観音霊場発願札所、谷原氷川神社の旧別当 |
長命寺の縁起
長命寺は、慶長18年(1613)、後北条氏の一族である増島重俊が諸堂を建立、寛永17年(1640)に大和長谷寺の秀算により「長谷密寺」と号したといいます。奥の院は、高野山の地勢を模しており、東高野、新高野として隆盛し、江戸幕府より9石5斗の御朱印を与えられていたといいます。
練馬区教育委員会掲示による長命寺の縁起
東高野山(旧谷原山)妙楽院長命寺は、真言宗豊山派の寺です。
慶長18年(1613)、後北条氏の一族である増島重俊が諸堂を建立、寛永17年(1640)に大和長谷寺の秀算により「長谷密寺」と号しました。
寺域は紀州高野山に倣ったもので、東高野、新高野と呼ばれました。江戸幕府より9石5斗の御朱印を受け、御府内八十八ヶ所霊場17番霊場になるなど関東における有数の庶民信仰の霊場となりました。(練馬区教育委員会掲示より)
「練馬の寺院」による長命寺の縁起
「新編武蔵風土記稿」に、「境内大師堂ノ縁起ニ拠ニ。増島勘解由重明ナルモノ当村ニ住シ。仏心深く兄重国カ第四子重俊ニ家ヲ譲リ。剃髪染衣シテ慶算ト号シ。紀伊国高野山ニ登リ木食勤行スルコト年アリ。或日大師ノ夢想ニ因テ讃岐国多度郡弥谷寺ニ至リ。師自作ノ木像ヲ感得シ。速ニ当村ニ帰リ。高野山ニ擬シテ一院ヲ営ミカノ像ヲ安置ス。今ノ大師堂是ナリ。」これが当寺の草創で、寺記によれば慶長18年(1613)とある。さらに寺記によると、増島重俊は重明の志を継ぎ金堂(観音堂)を建て、寛永17年(1640)に大和初瀬の長谷寺小池坊の僧正秀算が「谷原山妙楽院長命密寺」と号し、一寺とした。本尊は長谷寺本尊の十一面観世音菩薩を模した像を造って金堂に安置した、とある。これが長命寺の本尊である。幕府よりは「慶安元年境内観音堂領9石5斗の御朱印を賜ハレリ」と前記「風土記稿」に記されている。
大師堂と中心とした奥の院の規模は重俊が重明の志を継いで造られたもので、「江戸名所図会」には「此奥の院はすべて紀州高野山大師入定の地勢を模擬する故に、堂前に万灯堂あり、又御廟橋、蛇柳ハ同じ前庭にありて、左右に七観音六地蔵等の石像、其余石灯籠、五輪の石塔婆、並増島氏累世の墳墓並び建り、又御堂の四隅にハ五重の宝塔立、十三仏十王の石像の類ひ累々として野山の規制にならふ」と。いずれも現存し霊場としての結構をつくしている。このように紀州高野山を模して造られたので、世に東高野または新高野といわれてきた。しかし万冶元年(1658)火災にかかり堂宇ことごとく焼失した。当寺増島重辰(重俊の子)が寛文年間(1661-73)より元禄年間(1688-1704)にかけて再建した。さらに明治30年(1897)に再度火災にあい、本堂、庫裡、長屋門が焼けたが同37年本堂を再建し、さらに昭和45年、54年に大改修を加え、56年には本堂正面に南大門が建設された。
増島氏の氏寺として創建された当寺は、御府内八十八ヶ所霊場第17番霊場として厚く庶民の信仰を得、享保頃より参詣寺として寺門隆盛を極めた。「東高野みり」「長命寺みち」の道しるべがその面影を今に残している。特に芝居関係者の信仰を集め、芝居絵馬、歌右エ門の石像などはその名残といえる。(「練馬の寺院」より)
長命寺所蔵の文化財
長命寺所蔵の東京都指定文化財
- 「東高野山奥之院」境内西北部の霊場域
- 「板絵着色役者絵(双蝶々曲輪日記図絵馬・鳥居清長画)」江戸時代
長命寺所蔵の練馬区文化財
- 「長命寺仁王門」江戸時代(17世紀後半)[練馬区指定]
- 「長命寺の梵鐘」江戸時代(慶安3年1650年)[練馬区指定]
- 「牛若丸・弁慶図絵馬」江戸時代[練馬区登録]
長命寺の周辺図
参考資料
- 練馬の寺院(練馬区教育委員会)