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磐井神社|大田区大森北の神社、旧郷社、東海七福神の弁財天

磐井神社の概要

磐井神社は大田区大森北にある神社です。磐井神社は、敏達天皇(在位572-585)の代に創建と伝えられ、延喜式神名帳にも記載されている式内社で、「三代実録」によれば、貞観元年(859)に武蔵国従五位磐井神社官社に列し、武州八幡社の惣社に定められた、とされています。昭和7年から始まった東海七福神の弁財天となっています。

磐井神社
磐井神社の概要
社号 磐井神社
祭神 応神天皇、大己貴命、仲哀天皇、神功皇后、仲津姫大神
相殿 -
境内社 笠島弁天社(弁財天)、海豊稲荷
住所 大田区大森北2-20-8
備考 旧郷社、東海七福神の弁財天



磐井神社の由緒

磐井神社は、敏達天皇(在位572-585)の代に創建と伝えられ、「三代実録」によれば、貞観元年(859)に武蔵国従五位磐井神社官社に列し、武州八幡社の惣社に定められた、とされています。

「大田区の神社」による磐井神社の由緒

敏達天皇2年8月始めて経営あり、其後貞観元年(859)に六十余州に於て惣社八幡宮を選び定めさせ給い、宮社に列せし由三代実録に載す、当社鎮座の始め延暦の頃より永正年中(1504-20)に至る680年間は神威赫然として宮中繁栄したりしも、永正年中兵火に罹り本社末社共に皆烏有に帰す。其後再営の功成って復た昔日の如く建立せしも、天文年中(1661-72)社を再興す。天正18年(1597)徳川家康関東下向の節当社に参拝の砌寺社奉行本多紀伊守を以て向後当社を祈願所に申付る享保10年(1725)将軍吉宗、伊那半左衛門をして本社・拝殿・末社共建立せられたり。(「大田区の神社」より)

大田区教育委員会掲示による磐井神社の由緒

「三代実録」によれば、貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、当社を武州の八幡社の総社に定めたといわれる。
また「延喜式神名帳」に記載されている古社であり、当社の由緒書によれば、徳川家の将軍もここに参詣したことが記されている。
万葉集の「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここの笠島弁天を指したものという説もある。(大田区教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による磐井神社の由緒

(不入斗村)鈴森八幡社
除地六段五畝七歩、小名すなはち鈴森にあり、古の磐井神社是なり、社傳を閲するに人皇三十一代敏達天皇二年八月鎮座あり、祭神正面は應神天皇、左は大己貴神仲哀天皇、右は神功皇后姫大神なり、それよりはるかに星霜をへてのち、貞観元年八幡大神宇佐宮より山城國石清水に鎮座のとき六十六州ことに總社八幡宮を定めたまひしに當國にては此神社を總社とはきはめ給ひき、これは此年の九月風雨の災なからんことを、諸國の神社に命たまひしときも、此社に奉幣使をぞたてられたりき、しかして後萬民有年の驗を得たりとて、やがて官社に列せられけると【三代實録】に載たり、その條によるに、其頃は已に從五位下の神社たりしと見ゆ、されどその神位を賜はりしはいつの頃にかありけん、しるべからず、されば其頃より神田ありしことは論をまたざること、村名の條下にも出せり、或古記に圭田三十六束と云々、これ當所神田より収むる所の數なるか、この後數百年の間のことは、戦争にて兵火の災など蒙りしかば、記録をもことごとく失ひ、すべて傳はらず、小田原北條家分國の頃にや、内田周防とかいひし人神主たりと云傳ふ、御當代に至り検地ありて門前の地を御寄附あり、その頃は門前の地もひろかりしならん、元禄年中神主森田勝明が記せし社前變革の圖を閲するに、元龜天正のころまでは社地の廣さ、今の海道より百五十間餘も東の方に及びて、海厓に第三の鳥居あり、これより六十間餘西の方に第二の鳥居あり、又八十間餘を隔てゝ第一の鳥居ありしと、これらによえば今海中となりし處も、餘程廣平の地ありて、當社に附せられしならん、その後次第に海中へかけ入て、大にせばまれり、しかのみならず文禄慶長の頃は、昔の海道はこと々々く崩れ入て、又海中となりしにより、ふるき海道は往還の廣さにならひ、西へうつされたりしかど、猶年をおひてかけ入しかば、正保元年よりは又海道を西へうつされたり、それも年をへて又崩れいりしにより、その頃の代官などはからひて、このまゝにては如何になりゆかんもはkりがたしとて、寛文三年今の所へ海道を定められ、海岸へはたかく石垣をきづかれしにより、今に至るまで崩るゝことなし、されどかくのごとくしばしば々々その地を失ひたれば、社地も古へにくらぶれば甚れり、此にいふ海邊は、往古の處とはもとよりことなるべし、その舊蹟は荒井宿村に云ごとし、此所は一變せしよりのことなり、有徳院殿の御代におはせし時、しばゝゝ當所へ御遊獵のところ、當社へも御立寄あり、あるとき社地へわたらせたまひし次、社傳を御尋ありしに、時の神主一巻の縁起をとり出して台覧にそなへけるとぞ、又同じ御時享保十一年に宮社御造營ありしにより、いよゝゝ繁栄に及びしといへり、按に社傳によれば八幡大神の社ありてより後、その社を磐井の神社ともいはひしにや、此事分明ならさるに似たり、是らのことも記録等に明文なければしりがたし、
鳥居。海道の西にあり、磐井神社の字を扁す、これは吉田兼隆卿の筆なり、第二第三の鳥居はいまはなし、されど海中に舊基朽殘りたるもの今に存せりといひつといふ。
拝殿。鳥居の内にあり、四間に三間、
本社。二間四面宮作なり、古は幣殿拝殿ともに本社にたてつづきて、社内も廣かりしかど、近き頃再造のときより古のさまをうしなへりといふ、
神寶
鈴石一顆。社傳に云、神功皇后韓國を征したまひしとき、長門國豊浦津海邊にて得たまひし含珠の靈石なり、色青くして形状卵のごとく、石中に鈴の音あり、これをならせば鏘々たり、故に鈴石と名づく、皇后やがてこれを香椎宮に収め玉ひぬ、欽明天皇の御宇八幡大神宇佐宮に鎮座の時、この石をも同じく宇佐宮へうつされけり、聖武天皇の御宇石川朝臣年足を奉幣使として宇佐宮へさし下されしとき、不測の告ありて例の靈石を授けられしよりこのかた、その子孫につたへたるを、年脚の嫡孫中納言豊人、延暦年中當國の任にあたりて下向ありし頃、神勅によりて當社へかの靈石を奉納せり、これより世々神寶として神庫に収むといへり、されどまのあたり見しと云ふ人もきかず、いかにやあるべき、山崎敬義が明暦の頃の紀行には、人の盗みさりて今はなしと云、まことなりや、
薬水。拝殿の側にある磐井なり、これ社號の起ることの縁なりといふ、當社へ祈願をたつるもの、妄の願望をおこしてこの水をのむときは、味變して鹽はゆし、その願の正しき時は淡くして清水なり、又病者これを服すれば効驗を得ること神のごとし、故に薬水と呼ぶ、今に清冷なること他の水にことなり、ことに海岸にして清水とぼしき所なれば、日々汲取もの多し、
末社。
稲荷、猿田彦、一色靈神、大国主神、宇賀娘命。右五座を合祀す、三間に一間の祠なり、本社に向ひて右の方にあり、
天満宮、豊宇賀娘命、猿田彦命、鹿嶋大明神、淡島大明神、菊理姫命。右六座、合殿の祠は本社の南西の隅にあたりてあり、
鹿島社。同邊に有
烏石。鹿嶋の祠のかたはらにあり、石の大さ四五尺ばかり、風折烏帽子の状に似て、中央に鳥の形ある天然の石なり、これは書家松下司馬と云ものの秘蔵せしを、享保のころこゝに遷すといふ、
笠島。鳥石の側に池あり、纔の地なり、その中の嶋を笠嶋と號す、これ古歌によめるあら井が崎の笠嶋といへるは是なりといふ、されどその地のさまいとせはしく、且ふるき地景ともみえざれば覺束なし、此笠嶋のことは荒井宿の條にもいへり、
御成御殿蹟。薬水の東の方なり、享保十一年あらたにつくらしめ玉ひしが、その後破壊せしとき再造のことに及ばれず、今は、はやしのごとくなれり、
神主森田左京進致高。先祖より世々社務を司るといひ傳ふとその始のこと詳ならず、社傳に永禄天正の頃、内田周防とかいひし人神職たりしこと見ゆと云ときは、北條の頃は内田氏世々此社をつかさどりしにや、御入國の後寛文三年の頃、森田左京喜光といふもの神主たりしこと見ゆ、これ今の森田氏の元祖なりや、又元禄三年の記録に、森田左京勝明とあり、これ喜光が子か、是より後のことにや當社の神職たえはてゝ、北品川稲荷神主小泉出雲大掾と云もの、兼て當社をあづかりしに、老衰にたへずして、田邊左京と云ものに當社の神職を譲れりと、此人森田が遺蹟をつぎてより、子孫につたへて世々神職となり、今の左京進致高にいたれり、かくのごとく中絶しければ、その家の世系もむかしのことはつたへずといふ、(新編武蔵風土記稿より)


磐井神社所蔵の文化財

  • 磐井の井戸(大田区指定史跡)
  • 磐井神社(大田区指定史跡)
  • 鈴石鳥石と江戸文人の石碑群(大田区指定有形文化財)

磐井の井戸

当社社名の由来となったこの井戸、「磐井」と呼ばれる古井で、東海道往来の旅人に利用され、霊水又は薬水と称されて古来有名である。
この位置はもと神社の境内であったが、国道の拡幅により、境域がせばめられたため、社前歩道上に遺存されることになった。
土地の人々は、この井戸水を飲むと、心正しければ清水、心邪ならば塩水、という伝説を昔から伝えている。

磐井神社の周辺図