高輪山善永寺|親鸞上人の第3子善鸞が品川高輪台に開創
善永寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の善永寺は、高輪山と号します。善永寺は、建長年間(1249-55)に親鸞(1173-1262)の第3子善鸞(1210~86)が品川高輪台に開創、高輪山善永寺と称したといいます。慶長年間に浄土宗鎮西派から浄土真宗へ宗旨を改め、浄宗が開山、2世善教(織田信雄の嫡子)が寺地を上地し、浜町御坊の創建に尽力、浜町御坊内に移転しました。3世教意の時代、明暦3年(1657)1月18日の大火により類焼、築地本願寺寺内へ移転、本願寺築地別院寺中、表四箇寺の一寺として寺門興隆、6ヶ寺の末寺を擁していたといいます。大正12年(1923)関東大震災により堂宇を焼失、昭和5年(1930)当地へ移転しました。
山号 | 高輪山 |
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院号 | - |
寺号 | 善永寺 |
住所 | 大田区萩中1-11-24 |
本尊 | 木造阿弥陀如来立像 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 光輪幼稚園 |
善永寺の縁起
善永寺は、建長年間(1249-55)に親鸞(1173-1262)の第3子善鸞(1210~86)が品川高輪台に開創、高輪山善永寺と称したといいます。慶長年間に浄土宗鎮西派から浄土真宗へ宗旨を改め、浄宗が開山、2世善教(織田信雄の嫡子)が寺地を上地し、浜町御坊の創建に尽力、浜町御坊内に移転しました。3世教意の時代、明暦3年(1657)1月18日の大火により類焼、築地本願寺寺内へ移転、本願寺築地別院寺中、表四箇寺の一寺として寺門興隆、6ヶ寺の末寺を擁していたといいます。大正12年(1923)関東大震災により堂宇を焼失、昭和5年(1930)当地へ移転しました。
「大田区の寺院」による善永寺の縁起
当寺由緒書(竜谷大学図書館蔵)によれば、建長年間(1249-55)に親鸞(1173-1262)の第3子、善鸞(1210~86)が品川高輪台に開創、高輪山善永寺と称したと記されている。当時は、浄土宗鎮西派に属していたが、慶長年間に至り、開山浄宗によって、浄土真宗に改宗した。この頃、浄土真宗は、東西の分立、政治的情勢の中で、非常に動揺した時代であった。西本願寺准如(-1630)は、これらの問題で度々江戸に下向、その折当寺に宿泊され、浄宗はその教化に感じて改宗した。
そのとき准如より下賜された親鸞絵像は、現在も格護されている。元和3年(1617)、当寺2世善教(織田信雄の嫡子と「長徳寺文書」に記されている)は、品川高輪台の寺地を幕府に上地し、浜町御坊(築地本願寺の前身)の創建に尽力、落成とともにその寺中に伽藍を構築した。3世教意の時代、明暦3年(1657)1月18日の大火によって、浜町御坊も寺中もすべて類焼、築地海辺に再度移転することとなり、ここに築地本願寺が誕生することとなったのである。
以来、本願寺築地別院寺中、表四箇寺の一寺として、寺中正面に位置し、寺勢は次第に隆昌、寛文3年(1663)には、武蔵野西久保新田村に善永寺下屋敷が作られ、永代祠堂として、この地域の教化に当った。大正12年(1923)関東大震災により堂宇を焼失、昭和5年(1930)現在地に移り、復興された。(「大田区の寺院」より)
善永寺のもと末寺
善永寺所蔵の文化財
- 阿弥陀如来立像(大田区指定有形文化財)
阿弥陀如来立像
阿弥陀如来立像
木造寄木造り、金箔、彫眼、像高79.8cm。弘化2年(1845)に写された過去帳によると、恵心の作とされているが、これは信じがたい。
造像年代は明確ではないが、美しい彫眼をもつ像容、彩金の残り具合、彫像の手法など、時代を経た一種の落ち着きをもつ。
室町末期、または安土桃山時代の作品と推考され、保存状態はきわめて良い。光背と台座は最近の後補。
当寺は、昭和3年、築地より現在地に移ったもので、地縁には欠けるが、区内に現存する阿弥陀如来立像としては、すぐれたものである。(大田区教育委員会掲示より)
善永寺の周辺図