善慶寺|大田区山王にある日蓮宗寺院

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法光山善慶寺|新井宿義民六人衆墓

法光山善慶寺の概要

日蓮宗寺院の善慶寺は、法光山と号し、天正年間(1573-92)に開創したとされています。正応4年(1291)、当地の増田三郎右衛門が、中老僧和泉阿闍梨日法上人(1252-1341)に帰依して善慶寺を創建、以来身延山末でしたが、12世日好の代に品川本光寺末となったといいます。江戸時代までは、山門奥にある山王熊野神社、及び環七を越えた南方にある新井宿春日神社の別当を勤めていました。境内には、年貢減免を直訴しようとした新井宿義民六人衆墓があります。

善慶寺
善慶寺の概要
山号 法光山
院号 -
寺号 善慶寺
住所 大田区山王3-22-16
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 善慶寺瑞雲館を宗旨宗派を問わず開放
備考 -



善慶寺の縁起

善慶寺は、正応4年(1291)、当地の増田三郎右衛門が、中老僧和泉阿闍梨日法上人(1252-1341)に帰依して善慶寺を創建、以来身延山末でしたが、12世日好の代に品川本光寺末となったといいます。江戸時代までは、山門奥にある山王熊野神社、及び環七を越えた南方にある新井宿春日神社の別当を勤めていました。境内には、年貢減免を直訴しようとした新井宿義民六人衆の墓があります。

「大田区の寺院」による善慶寺の縁起

正応4年(1291)3月28日、増田三郎右衛門が、日法(1252-1341)に帰依して当寺を建立した。11世日円の代までは身延山末であったが、12世日好が勝劣派の教えに従い、品川本光寺末となった。昔は近くの熊野神社、春日神社両社の別当を兼ねたが、三派合同により日蓮宗となる。新井宿六人衆処刑に際し、20世日応は死骸を当寺墓地に葬った。(「大田区の寺院」より)

新編武蔵風土記稿による善慶寺の縁起

善慶寺
境内1段4畝12歩、地頭免除、池上往来のかた不入斗村の堺にあり。法華宗、品川本光寺末、法光山と号す。昔当所の人増田三郎右衛門と云者、中老僧和泉阿闍梨日法上人に帰依して当寺を建立す。時に正応4年3月28日なり。其後世々の住僧連綿として身延山の末寺なりしに、第十二世経王院日好上人の時勝劣派の教に帰依し、遂に離末して本光寺の末山となれり。本堂4間四方、本尊三宝及諸尊、四菩薩、四天王、文殊、普賢、不動、愛染、大黒天等の像を安置す。
鬼子母神社、本堂にむかひて左にあり。9尺四方。(新編武蔵風土記稿より)


善慶寺所蔵の文化財

  • 新井宿義民六人衆墓(東京都指定旧蹟)
  • 新井宿村名主惣百姓等訴状写し(東京都指定文化財)

新井宿義民六人衆墓

江戸時代の荏原郡新井宿村は、家康の関東入府から幕末にいたるまで、旗本木原氏の知行地であった。四代兵三郎重弘の時代、延宝元年(1673)の旱魃、翌年の多摩川の氾濫による洪水や長雨などの天災で農民の困窮は甚だしく、過酷な年貢収奪に耐えかねた村民は、十九ヶ条の訴状(東京都指定有形文化財「新井宿村名主惣百姓等訴状写し」)を提出して年貢の減免を願い出た。この訴えは黙殺されたため、重立百姓六人は、将軍家綱に起訴(おっそ)しようとしたが、決行直前の延宝5年(1677)正月2日密告により捕えられ、神田橋門外にあった木原内匠邸(現在の千代田区内神田1丁目2-4番)で処刑されたといわれている。
新井宿義民六人衆による起訴事件は、村人の中に語り継がれ、延宝8年(1679)義民と縁故筋にあたる間宮藤八郎が、両親の墓を建てると称して六人の法号を刻んで密かに造立したのがこの墓石である。正面に父母の、裏面に六人の法名が刻み込まれており、台石の四方に花立と水入が取りつけられ、その間をくり抜いて連結し、一箇所に水を注げば四方に行き渡るように工夫されている。近年の寺域整備により改葬され、その際出土した甕棺と義民六人衆の遺骸引取りの際に使役した馬の飼葉桶は境内に展示公開されている。(東京都教育委員会掲示より)

善慶寺の周辺図