経王山本光寺|旧京妙満寺末の觸頭
本光寺の概要
顕本法華宗系単立の本光寺は、経王山と号します。本光寺の創建年代等は不詳ながら真言宗寺院として創建、顕本法華宗の開祖日什上人のが永徳2年(1382)法華宗に改めたといいます。江戸時代には、南品川天妙国寺、浅草慶印寺と共に京妙満寺末の觸頭三寺だったといいます。
山号 | 経王山 |
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院号 | - |
寺号 | 本光寺 |
住所 | 品川区南品川4-2-8 |
本尊 | 釈迦如来 |
宗派 | 顕本法華宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本光寺の縁起
本光寺の創建年代等は不詳ながら真言宗寺院として創建、顕本法華宗の開祖日什上人のが永徳2年(1382)法華宗に改めたといいます。江戸時代には、南品川天妙国寺、浅草慶印寺と共に京妙満寺末の觸頭三寺だったといいます。
品川区の文化財による本光寺の縁起
本光寺
除地三段七畝十八歩、妙蓮寺の西隣なり、経王山と號す、法華宗京都妙満寺末、什門流派の觸頭、江戸三ヶ寺の一なり、當寺則日什永徳二年起立す、日什は明徳三年二月二十八日寂す、後二位僧都を贈らる、客殿は八間に七間南に向ふ、本尊宗風の諸尊を安ず、按ずるに妙國寺文書に寛正六年十一月十九日、品川の領主上総前司沙彌道扶、随應庵跡敷地を當寺に寄附せしことあり、又本光寺住持日暁文明八年丙申六月二十日、鈴木入道に贈る書に、馬場地替代に本光寺地進置事、東者其方之堺横、西者法蔵寺界、南は善仲寺界、北者妙行寺界此分永代進置事云々と見ゆ、左に載る文書を并考るに昔は大寺なりし事しらる。
寺寶古文書八通(文面省略)
鬼子母神堂。客殿の側にあり、
鐘楼。是も客殿の側にあり、昔の鐘は天正年中北條氏の兵持去て、岩附の城に置後に所在を失ふ、今の鐘は元禄年中新に鋳しものなり、銘文考證あり左に載す。(銘文省略)
品川問答舊跡。(中略)
塔頭。昔は塔頭三宇あり、今其一を廃す。
清光院。鬼子母神堂の西南に在。
受玄院。清光院の南にあり。
中門。柱間八尺客殿の南にあり。(品川区の文化財より)
品川区の文化財による本光寺の縁起
古い頃は真言の寺であったが、日什上人の時に、日蓮の弘法を慕って今の宗風に改め法華道場とした。
慶安の頃将軍義光がこの地に鷹狩りの際、当寺に休まれ、松の寺と上意があった。昔は境内に松の古木が多くあったのでこう名付けられたのである。(品川区の文化財より)
本光寺所蔵の文化財
- 木像日蓮聖人坐像(品川区指定文化財)
木像日蓮聖人坐像
この日蓮聖人坐像は、像の高さ68.5cmの堂々たる肖像彫刻である。本像は、像内に納入された文書および法華経8巻によって造立の経緯と開眼年代が明らかで、京都上行寺の祖師像であったことが判る。このように造立の経緯のわかる彫刻は区内には数少ない。
また像自体については、面部が後世の補作となっている点こそ惜しまれるものの、量感に満ちた体躰や袂先の表現、着衣に見られる緻密な唐草盛り上げ文様など、中世の祖師像の表現をよく伝える江戸時代初期の貴重な作品である。(平成18年8月31日)
本光寺の周辺図