光林山西福寺|服部頼母増祐が開基、玉川八十八ヶ所霊場
西福寺の概要
真言宗豊山派寺院の西福寺は、光林山持明院と号します。服部頼母増祐が開基となり、継尊法印を開山として、天正12年(1584)創建したといいます。玉川八十八ヶ所霊場46番です。
山号 | 光林山 |
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院号 | 持明院 |
寺号 | 西福寺 |
本尊 | 薬師如来立像 |
住所 | 世田谷区赤堤3-28-29 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 玉川八十八ヶ所霊場46番 |
西福寺の縁起
西福寺は、服部頼母増祐が開基となり、継尊法印を開山として、天正12年(1584)創建したといいます。玉川八十八ヶ所霊場46番です。
新編武蔵風土記稿による西福寺の縁起
新義真言宗豊山派、光林山持明院という。
天正12年(1584)12月、服部頼母増祐が継尊法印を開山としたと伝えられる。本堂にはもと本尊不動明王の像を安置していたが、文化年間には、本堂、本尊、薬師堂ともに祝融の災にあい、焼失してしまったので、今はもと薬師堂にあった薬師如来の立像を本尊としている。現在の本堂は現住の7代前の住職が建てたもので、欄間の彫刻だけは焼失前のものであるという。
入口には金剛密迹両力士(仁王尊)を安置した仁王門がある。この仁王尊は正徳1年(1711)他から移したもので、作者不明であるが、鎌倉時代の檜の寄木造といわれる。現在は全体に彩色がほどこしてあるが、木肌は人肌のように美しいという。
仁王門の右手前に1m余の石碑がある。願主安藤忠蔵が宝暦9年(1759)に造建したもので、正面には大師遍照金剛とあり、側面には「右二番上北沢村密蔵院へ八丁余、左三十一番当村善性寺七丁余」とあり、寺院巡礼の道標をかねた区内ではめずらしい石碑である。山門を入って左手に、故伊賀守服部君墓碑銘と記した篆額の1m70cm程の墓碑がある。服部伊賀守貞勝の事蹟をその子貞陽が文政7年(1824)7月に記して建てたもので、侍講成島司直の撰文になり、戸川安恵が執筆したものである。貞勝は字を子一といい祖先は孫数世の後、伊賀国服部郷に住して服部氏を氏としたという。貞勝は駿府奉行、松前奉行、長崎奉行等を歴任した江戸幕臣である。本堂裏の墓域中央には服部家一族の墓があり、貞勝ら40余名の墓碑を存している。
この寺院には来迎板碑がある。区内におけるもっとも優秀な板碑といわれるもので、下方がかけているが、高さ68Cm、巾33cmで、阿弥陀如来の像は完全にのこり、うす肉彫と線彫をたくみに併用したもので、鎌倉時代の作であろうといわれている。明治初年にはここに寺子屋があった。「開学明細書」巻三には、
家塾明細表 西福寺住職 松岡照山
と記し、明治4年末9月より12名の男女に筆学教授をしていると届け出ている。(新編武蔵風土記稿より)
西福寺所蔵の文化財
- 木造薬師如来立像(世田谷区指定有形文化財)
- 阿弥陀一尊画像板碑(世田谷区指定有形文化財)
木造薬師如来立像
当寺本尊。昭和56年に行われた解体修理により、ほぼ造立当所の姿に復された。穏やかな面相や、下腹部から流れる浅い彫りの繊細な衣文表現などに平安時代末期の特徴が認められるが、胸から腹部にかけての張りのある膨らみには、次代の息吹も感じられる。
「新編武蔵風土記稿」などの資料によれば、本像はもと当寺にあった薬師堂の本尊として祀られていたが、貞和年間(1801-03)の本堂罹災時(薬師堂もこの時焼失したという)に旧本尊の不動明王が焼失したため薬師堂にあった本像を本堂に移し以後当寺本尊にしたという。なお、本像の伝来について、寺伝では高野山から移されたものというが、当時の大檀越である服部氏が故地伊賀国より請来したとの伝承もある。
全体的に彫りの荒さが見受けられるなど、地方色が看取される像容ながら、随所に時代的特徴をよくとどめており、区内に伝わる数少ない古像の一つとして貴重な作例である。(世田谷区教育委員会掲示より)
阿弥陀一尊画像板碑
西福寺の阿弥陀一尊画像板碑は、区内に現存する画像板碑四基の中で、最も優れた作品である。阿弥陀像は力強い線で彫り出されており、複雑な衣文線も丁寧に仕上げられている。
現在、蓮台以下を欠失していて、正確な造立年代を知ることはできないが、阿弥陀像の衣文の一部に漆箔の跡が見え、もとは全体が金箔に覆われていたものと思われる。(世田谷区教育委員会掲示より)
西福寺の周辺図