長徳山光伝寺|喜多見学校等に供用、玉川六阿弥陀
長徳山光伝寺の概要
浄土宗寺院の光伝寺は、長徳山宝寿院と号します。光伝寺は、府中市車坂本願寺3世雲蓮社西誉上人方阿天真玉公大和尚が開山となり永禄12年(1484)創建、慶安2年(1649)江戸幕府より寺領7石2斗の御朱印状を拝領したといいます。明治維新後には喜多見学校・喜多見尋常小学校高等科教場・砧尋常高等小学校として使用されていたといいます。玉川六阿弥陀3番です。
山号 | 長徳山 |
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院号 | 宝寿院 |
寺号 | 光伝寺 |
住所 | 世田谷区喜多見5-13-10 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長徳山光伝寺の縁起
光伝寺は、府中市車坂本願寺3世雲蓮社西誉上人方阿天真玉公大和尚が開山となり永禄12年(1484)創建、慶安2年(1649)江戸幕府より寺領7石2斗の御朱印状を拝領したといいます。明治維新後には喜多見学校・喜多見尋常小学校高等科教場・砧尋常高等小学校として使用されていたといいます。
世田谷区教育委員会掲示による長徳山光伝寺の縁起
寳壽院(光傳寺)
当寺は、長徳山寳壽院光傳寺と号し、浄土宗鎮西派で京都の知恩院直末である。
本尊は阿弥陀如来坐像で、平安末期から鎌倉初期の作と認定され、世田谷区有形文化財に指定されている。
寺の創建は永禄十二年(一四八四)で、開山は西誉上人方阿玉公和尚である。
慶安二年(一六四九)七世本誉上人万休竜長和尚の代に、三代将軍家光より七石二斗余の御朱印をうけ、御朱印状九通が寺宝として保存されている。
現本堂は、十六世荘誉上人願阿意俊和尚の代、寛延三年(一七五〇)に庫裏と共に造営されたものである。
また、当寺は明治九年より同十一年まで喜多見学校の校舎として使われ、明治二十三年から同三十五年までは喜多見尋常小学校高等科教場として使用されていたが、同年五月喜多見、朝陽の両校合併により砧尋常高等小学校が設立され、同校中央教場となり明治四十年三月まで使用されていた。
当寺は玉川六阿弥陀三番札所である。(世田谷区教育委員会掲示より)
せたがや社寺と史跡による長徳山光伝寺の縁起
光伝寺(喜多見町4300)
長徳山宝寿院と号し、もと慶元寺の末寺であった。境内900坪(3000m2)、開山は府中市車坂本願寺3世雲蓮社西誉上人方阿天真玉公大和尚で、開基は不詳であるが、総村中と書かれた棟札が昭和26年4月本堂大改修の時草屋根裏より発見された。堂宇は永禄8年(1565)より5年かかって竣工したと伝えられ、現本堂は6間(11m)に5間半(10m)西向総欅造りである。寛延3年(1750)16世荘誉意俊和尚によって庫裡とともに再建されたのであるが、13年後の18世闇隆和尚の時に建具類が完成されたと伝えられている。本尊は阿亦陀如来木彫座像で、朱衣の阿弥陀は関東では非常に珍らしいといわれ、台座とも約4尺5寸(136 cm)余、「新編武蔵国風土記稿」は恵心僧都作と記し、昭和36年都文化財調査委員会は藤原時代末期の作で、文化財として貴重な仏像と鑑定している。文化3年(1806)8月再興の文書が胎内より出た。18位明運社鱗誉上人閣隆和尚の代である。脇侍は右に観音、左に勢至両菩薩を配し、ともに江戸時代の作である。須弥壇が非常に美事な出来であり、灯寵は瓦焼製品で、表面に和紙を厚く貼り、その上に漆でぬりかためた珍らしい物である。その他寺宝に7世竜長和尚の時、慶安2年(1649)10月17日徳川家光より7右2斗余の寺領を給せられ、以後代々の将軍により14代家茂まで9通の朱印状がある。他に頭痛の薬師如来、溜飲を治憲するといわれる朝日観音があり、戦前まで癪などの禁こくを毎年土用丑の日に限り施しており非常に栄えた。明治9年より2年間喜多見小学校および明治24年より同39年まで喜多見高等小学校仮教場として利用していたので、本堂の荒廃はその極に達し、同42年先代の完教和尚が奥沢の浄真寺より入山し再興を計ったが、現住職がその後を承け、父子2代の努力によって面目を一新した。(せたがや社寺と史跡より)
新編武蔵風土記稿による長徳山光伝寺の縁起
(喜多見村)光傳寺
小名出口にあり、長徳山寳壽院と號す、浄土宗、村内慶元寺の末、開山玉公永禄十二年の草創にて、此僧天正六年十二月七日示寂せり、御朱印七石二斗餘大猷院殿の御代に賜ひしと云、本堂六間に五間半西向、本尊弥陀木の坐像臺座共四尺五寸許、恵心の作なり、後にのせたる舊跡の條に載たる神体をば、此寺に置しと云へば、故あるべけれども定かなることなし。
稲荷祠。門を入て右にあり、纔なる祠にて東向。(新編武蔵風土記より)
長徳山光伝寺の周辺図