法界山清岸寺|酒呑地蔵、区登録文化財の五輪塔
清岸寺の概要
浄土宗寺院の清岸寺は、法界山と号します。清岸寺は、専蓮社覚誉呑了が開山となり、寛永元年(1624)参宮橋付近に創建したといいます。寺地が代々木練兵場に編入されることになり、明治42年当地にあった法界寺を吸収合併、法界山清岸寺と改号したといいます。境内には、室町期の製作と言う五輪塔や板碑をはじめとして酒呑地蔵など数多くの文化財があります。
山号 | 法界山 |
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院号 | - |
寺号 | 清岸寺 |
住所 | 渋谷区幡ヶ谷2-36-1 |
本尊 | - |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | 清岸寺会館 |
備考 | - |
清岸寺の縁起
清岸寺は、専蓮社覚誉呑了が開山となり、寛永元年(1624)参宮橋付近に創建したといいます。寺地が代々木練兵場に編入されることになり、明治42年当地にあった法界寺を吸収合併、法界山清岸寺と改号したといいます。
新編武蔵風土記稿による清岸寺の縁起
清岸寺
浄土宗江戸伝通院末、龍池山不断院と号す。
古は寶地山と称せし由、開山専蓮社覚誉呑了、寛永元年の起立と云、呑了は石州津和野の産なること、「傳燈総系譜」に載たり、正保4年12月15日寂す。(新編武蔵風土記稿より)
「渋谷区史」による清岸寺の縁起
清岸寺(幡ヶ谷原町八〇三番地)
浄土宗、小石川伝通院末、龍池山不断院と号す。もと寶池山と号し、代々木山谷にあつた。開山専蓮社覚誉呑了。寛永元年建立、呑了は、石州津和野の人で、正保四年十二月十五日に寂した。明治四十年寺域が、代々木練兵場に編入せられ、旧法界寺跡の現在の場所に移り、落成したのは、同四十二年九月である。本堂に龍池山の額を掲げた。龍の字は文字の代りに、左甚五郎の作と称する木彫の龍を用い、釘打にしてあつた。屡々抜出したので、釘付にしたという。この龍は、古来雨請いに験があるといわれ、炎旱の折には、村民等、境内の池辺に、額のまゝ持出して、数回水を灑ぐ時、必ず夕立があつた、幡ヶ谷に移転の地も、二回雨乞いをしたということである。
瘡守稲荷
本堂の前に鎮座した。正しくは一老稲荷大明神という。もと法界寺の境内に勧請したのを、法界寺廃絶の後、本寺に移した。腫物に靈驗ありと称せられて、信仰するもの多く、祈願の際には、土の団子を神前に供え全快すれば、真の団子を供える。これが為に、明治の末年まで、境内に一軒の団子屋があつた。最近までも、常に、小皿に盛った土の団子が、数箇供せられていた。団子に用いる土は、必ず境外のものを使用したという。
境内、山門に近く「台暦運乗靈位」と彫した石碑がある。寺の過去帳によれば、戸田侯内青木団八の墓であつた。正徳四年十二月歿す、平常歯痛の為めに苦しんだので、その後、歯痛のあるものがいつとなし参詣して、祈願するようになつたと伝えられている。参詣するものは、奉納の柳楊子一本を借用して帰り、全快の時には、更に新らしい楊子一本を添えて、返納するという。最近までも、平常十本内外の楊子が供えてあつたから、多少の参詣者があつたのであろう。
因にいう「東京近郊名所図会」十四巻に、大塚信氏の調査した豊多摩郡の墳墓の表があり、清岸寺の条に、「和歌 目夏繁昌墓」と見えている。現在では見当らない。他に移転したか、無縁になつて失われたのであろう。(「渋谷区史」より)
合併した法界寺について
法界寺
浄土宗、入間郡蓮馨寺末、傳燈山般若院と号す。開山傳誉順良、寛永7年11月15日寂す。本尊弥陀。(新編武蔵風土記稿より)
法界寺(幡ヶ谷)
浄土宗、川越蓮馨寺末、伝燈山般若院と号す。開山は伝誉順良。寛永七年十一月寂。本尊阿彌陀如来。閻魔堂薬師堂があつた。維新の頃廃寺となる。(新編武蔵風土記稿より)
清岸寺所蔵の文化財
- 板碑
- 念仏供養塔
- 庚申塔
- 五輪塔(渋谷区登録文化財)
- 水上忠蔵先生追慕碑
- 酒呑地蔵
五輪塔(渋谷区登録文化財)
五輪塔は、平安時代末から見られる墓石などで、古いものとしては平泉中尊寺仁安四年(一一六九)の銘のある五輪塔が確認されています。
区内では、江戸時代の大名墓地に五輪塔が多数存在しますが、清岸寺に所在する五輪塔は、形態から制作年代不明ながら中世(室町時代)にまで遡るものです。風化や摩滅によりわずかに水輪に梵字が判読できるものが一基あります。四基の材質は、安山岩製のものが二基、砂岩製のものが二基となっています。
清岸寺は、もとは現在の(社)東京乗馬倶楽部(代々木神園町4番)付近に所在していましが、代々木練兵場の建設によって、廃仏毀釈で廃寺となった法界寺跡に移されました。これら五輪塔が法界寺にあったものか清岸寺から移ってきたものか、来歴についての詳細は不明です。
しかしながら、本五輪塔は中世にさかのぼるものとして希少であり、中世資料の少ない当区にとってはきわめて重要なものです。(渋谷区教育委員会掲示より)
板碑
本堂の左手に建立された幡ヶ谷聖観音の右丁にある板碑は、室町時代初期の造立で、中央の梵字は「阿弥陀如来」です。板碑は墓塔ではなく、一種の卒塔婆で、本区には少ないものです。(渋谷区教育委員会掲示より)
念仏供養塔
墓地入口の右手に六地蔵があり、その背後の一段高い所に、舟形の後背に浮彫りになった地蔵尊(二基)があります。光背に「為念仏諸衆二世安楽」「武州万念供養塔」などと刻まれており、江戸時代初期には幡ヶ谷(畑ヶ谷とも書いた)や代々木村に、念仏講のあったことがわかります。(渋谷区教育委員会掲示より)
庚申塔
念仏供養塔の隣りにある浮彫りの猿型半迦像(片ひざを立てた坐像)は庚申塔です。このような形態をした庚申塔は、区内では非常に珍しいものです。(渋谷区教育委員会掲示より)
水上忠蔵先生追慕碑
この追慕碑は、幡代小学校の前身である白水分校の教員で幡代小学校の開校と同時に教員として迎えられた水上忠蔵先生の教え子が、明治四十五年(一九一二)四月七日に建立したものです。このたび、幡代小学校の開校百三十周年にあわせて説明板を設置しました。
先生は、幡代小学校の開校と同時に教員として迎えられましたが、生徒の指導はもとより、校長をよく補佐し、幡代小学校にはなくてはならない存在でした。
また、教育に関しては、とても厳格であったようです。先生の没後、二十年余を経過しましたが、教え子たちは先生に対する尊敬や親しみを思い出し、それを後輩たちに残すことを目的として、清岸寺の境内にこの追慕碑を建立しました。先生は明治二十四年(一八九一)一月十八日に六十一歳で亡くなりましたが、先生と生徒の結びつきや愛情の深さを知ることができます。(渋谷区教育委員会掲示より)
酒呑地蔵
この地蔵は、江戸時代の宝永五年(一七〇八)にたてられ、別名を子育地蔵ともいわれますが、つぎのようないい伝えがあります。
むかし、四谷伝馬町に住む中村瀬平という者は、故あって成長の後に家を出て幡ヶ谷村の農家に雇われて農作業や子守りなど一生懸命に働いたといわれています。
瀬平の勤勉さに感心した村人は、三十一才になった正月に彼を招いてご馳走したところ、ふだんは飲まない酒によった瀬平は川に落ちて水死しました。瀬平は村人の夢まくらに現れて、この村から酒呑を無くすために地蔵を造ってほしいと願ったので、村人たちは早速一基の地蔵を建立し、酒呑地蔵と伝えて来ました。(渋谷区教育委員会掲示より)
清岸寺の周辺図